ひとりさんの今日の言葉から
・・今日一日
・・人に優しく・・・自分に優しく・・でいこう
よく、人に優しく自分に厳しくって言う人がいますが、そういう人に残念ながら一度も会ったことがありません。自分に厳しい人は、人には倍ぐらい厳しいものです。 やっぱり一番いいのは人に優しく自分にも優しくですよね。 そういう人の周りにはいつも優しい波動が漂っています。
(管理人)
「正しさ」「公平性」・・・っていう言葉や考え方には素晴らしいものがありますが、いっぽうで極端に陥ってしまい「やさしさ」を忘れがちになるという面もあります。(個人的には、正しさや公平性というのは、「論理」を元にすることから、狭い考え方だと思っています。)
よく物事の結果に対して「自己責任」という言葉を「わざわざ」持ち出す人や政治家がいます。・・私も自己責任というのは「
すべての原則」だということに異論がありません。
すべての原則であるとは、「自己責任」が
他人を責めるための道具でもなければ、他人をあざ笑う手段でもないということです。あるいは、何かの被害にあった人をかわいそうだと思うことでもありません。 それは、経験や状況から何かを学ぶことであり、また、何かを変えるチャンスのことです。
たとえば、「自己責任だから○○するのはおかしい、不公平だ」という主張がありますが、これなんかは「おかしな発想」ということになります。
最近のマンション耐震強度偽造事件の被害者(?)と呼ばれる人たちに対してもそうです。すべてが自己責任とは、文字どうり「すべてが自己責任」です。
国に対し補償を求める(というか願う)というのも「本人達が、自己責任でおこなうことであり、わきがとやかくいうことではありません。」(注、とやかく言うというのも、もしそういうことを
したいのなら自己責任でおこなってもいいということもいえます。)
もちろん、そういう主張は「公平性」の観点から認められないかもしれません。あるいは、国や自治体にも責任の一旦はあるとして認められるかもしれません。あるいは、「社会的な影響の程度が大きいとして」自治体が援助にのりだすかもしれません。結果、見ている人は「なんて世の中、不公平なんだ!」と憤慨する気持ちをいだくかもしれません。あるいは「やっぱり、世の中ってそういうもんだ。」と諦めの気持ちを抱くかもしれません。
実は「自己責任」とは「自己選択」のことです。選択があって結果があるからです。「自分が不幸だ。自分はついていない」と考えることも、自己選択の結果です。
A交通事故にあったから「自分はついていない。不幸だ。」
B交通事故にあったから「自分はついている。貴重な経験をすることができた。」
どちらの選択をするかは
決まっていません。常に自分が決めています。 これこそ「自己選択」であり、個人個人、経験する状況も違うわけであり、それこそ「自己責任」であるということができます。
以前書いた日記です。
⇒良くないことが起こったとき、起こりそうなとき
スポンサーサイト
- 2005/11/26(土) 01:54:25|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:2
最近、BSE問題を話題にしているので、アメリカ人はこの問題をどう考えているかがちょっと気になりました。
アメリカ人にとっては、BSE問題などほとんど気にかけていないといえそうなんです。(少しでも向こうで生活した人は、充分実感していることでしょう。)
食に対する意識が西洋と東洋の違いもあるのかカナリ違うようなんです。しかも、BSE由来のヤコブ病で死ぬことを心配する前に、他の病気にかかることを心配しています。いや実際は、問題だとは思っていても、心配さえしていないのかもしれません。
★アメリカ人の死亡原因のトップが、間もなく肥満になりつつあるという。現在、最も多い死亡原因は「喫煙」で、年間43万5000人が肺がんなどで死亡している。これに続くのが「肥満」で、年間40万人が糖尿病や心臓病を患って死亡に至るという。たばこが槍玉に上げられたことで、喫煙による死亡は減少しているものの、肥満による死亡は年々増加しており、政府はこのままいけば肥満がトップになる日は近いと警告している。
そして2004年3月11日、連邦下院で「肥満訴訟禁止法」が可決された。要するに、肥満の原因としてレストランや食品メーカーを訴えることを禁じる連邦法である。他国の人は「そんなバカな…」と思うかも知れないが、肥満による健康障害の賠償を求めて、マクドナルドを訴えるアメリカ人が後を絶たないそうなのだ。
追加:米国の下院議会は10月19日、体重増加や肥満をめぐって消費者がファーストフードチェーン など食品メーカーを集団訴訟などによる訴えを禁止するチーズバーガー法(正式名「食品の 消費における自己責任法」)を可決した。
(管理人)肥満訴訟禁止法・・(日本人なら)笑ってしまうような話だけど、アメリカにとって食の問題といえば「肥満問題」なのかもしれません。
アメリカ人の食生活・食に対する考え方が実感できた文章を見つけたので紹介することにします。
⇒アメリカ人の食生活を大バッシング!!⇒アメリカ人の食生活を大バッシング!!な映画⇒DVD「スーパーサイズミー」・・ 1か月間、すべての食事をマクドナルドのメニューで摂っていたら、体はどうなるのか? そんな疑問に、スパーロック監督が自らの肉体をもって体験し、答える超異色のドキュメンタリー。食べ始めて数日後の嫌悪感を通り過ぎると、やがて麻薬のように欲する“マック食”の中毒性が明らかになる。最初は実験を軽視していた医師や、スパーロックのベジタリアンの恋人も、彼のあまりの体調の悪化に、マック食を止めさせようとするのだが…。
- 2005/11/08(火) 05:01:13|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:3
ありがとうって言うだけで
こんなに幸せになるなんて
ありがとうが今日も幸せを運んでくれる。ありがとう、ありがとうって何回も言うと幸せになる。
周りの人にもありがとう。食べ物にもありがとう。飲み物にもありがとう。
ともかくありがとうをいっぱい言うと
ありがたい現象が次から次へと起きてくる
不思議だけどともかく幸せになれる。
ありがたいことだ!!
★斎藤一人さんのHPがあります。上のような一人さんの「今日の言葉」を毎日みることができます。英語でも書いてます。「気にいった言葉」をたまにここで紹介するのもいいかなって思ってます。
⇒「今日の言葉」ひとりさんがジョークでつくった「ついてる神社」が全国津々浦々にできているようです。私の地域にもできたら行きたいなとおもっています。最近やっている「寺子屋講演会」
⇒「まあちゃんクラブ」そして、最後に、今日このブログを見に来てくれて、たまたまでも来てくれて、ありがとう。サンキュー。
- 2005/10/21(金) 09:50:38|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:3
★まだ「ブログ」が一般的でない頃に日記として書いたものを再掲載&加筆、改変して掲載してみます。なかで「水の思想」としてあげているのは、最近話している古代中国の「老荘思想」に近いものです。
(再掲載)
人の数だけ「考え方」もあります。人といっても、今生きている人だけでなく昔の人も入れるとそれこそ膨大な数になります。
さて、その「考え方」ですが、血液型のように、いくつかのグループ分けができるのです。お釈迦様の考え方などもどれかにはいることになります。
で、私の勝手な見かたなんですが、「人生をよくする」考え方にもいろいろあって「どれがいいのか?」をゲームとして競い合っていると見ることができるんです。
たとえば、守護霊と対話してアドバイスをするといったことを選んでいる人もいるわけです。
そのなかで、
私が「水の思想」と呼ぶ考え方のグループがあります。水の思想の特徴は「全く無理というのがない」というものです。他の思想には、無理がある分、実は「反動」というのがあるんですが、これにはそのようなものがありません。
反動というのは、たとえば、上の守護霊と対話してアドバイスすると言う場合、「守護霊と対話するという現象に対し、こういったことが素晴らしいとか、こういったことに依存してしまう」ということが反動になります。
「本物かどうか?」が主な関心になり、一度本物だと判断したら「内容に関係なく」なんでもかんでも「ありがたがる」というパターンにもつながりやすいといえます。
たとえ、守護霊の考えが、どんなに素晴らしいものであっても、ただ従っているいるだけならば、それは守護霊の人生になってしまい(笑)、自分の人生を生きていることにはなりません。・・どうしても助けてほしいときは、微妙な感じで(笑=ラッキーとか、友達とかが、何気なくふと漏らす言葉という形で)援助やアドバイスを多分(笑)くれることでしょう。
最近TVでも見ることの多い江原啓介
(⇒サイト)さんはこういってます。「私のもとに訪れる相談者は、私の本を少しも読みもせず、学びもせず、
ただ答えだけを求めていらっしゃる人が大半です。それにはガッカリさせられます。・・」
では、続けます。
次の2つをみてください。
A 「人には困ったことが起きる。その困ったことを解決するにはどうしたらよいのか?」
B「人には困ったことなどおきない。本当に困ったとき人はそれを乗り越えていくものである。困っているんではなく、単に学んでいるだけなんだ。」
水の思想はBのほうに当てはまります。
また、子育てでも
「悪いところを直す」という考え方がありますが、「いいところを伸ばす」という考え方もあります。
「悪いところを直す」というのは、まず「
いいところが沢山ほかにあるにもかかわらず、悪いところを中心に見てしまっている」ということ、また、「
悪いところを修正しなければ良くならないと思い込んでいる」ということからきます。
もちろん場合によっては「悪いところを直すという考え方が
一時的に必要なことがあるかもしれません。」たとえば、犯罪みたいな話のレベルです。
さて、TVで「松井秀樹の子育て」というのをみました。まあバライティなんですが、
松井選手が、子供のころ、テストの答案を、点数がいいものと悪いものに分け、親には点数のいいものだけを見せていました。それを見た松井秀樹の親はどういう行動をとったか?
というものでした。
悪いテストの点数を隠しているというマイナスに焦点をあてるのではなく、単純に松井秀樹少年がみせた点数のいい答案をみて「よくがんばったな。おまえは凄いぞ」ということだけ言ったといいます。
実は「悪い所があった場合、それをなくそうとするより、いい点に焦点をあてて、そちらを伸ばそうとするほうが、楽だし、効果がでることが大きい」のです。
悪い所はどうなるかですが、こっちが特に言わなくても、本人が自分で直すか、あるいは気にならない程度のものになっていきます。
悪い所といったって「悪い点がない人なんていない」わけですから。
これが「水の思想」をくむ考え方の一つです。
水の思想はまったく「無理」がありません。変な向上心もありません。人格的に優れた人になろう。とか、悟りを開こう。とか言わないわけです。「悟りをひらこう」と無理をして、変な悩みや葛藤を産み出すこともありません。たとえば、「教育が広く普及してない古い時代に語られた、しかも現代のような録音機器がない時代に伝聞された経典を唯一のよりどころとし、さらに、言葉(文字)という幾とおりにも解釈できるものに対し、厳密な解釈や正しさを追求しても議論がいつまでも続くだけです。・・心の平安を求めるはずが、その議論の最中、心おだやかではない状態にもなるのは確実です。・・「朝まで生TV状態(笑)」は偶にやるぐらいにしておこうです。あの番組だって2ヶ月に1回ペースなんだから(笑)。
で、最もインパクトが薄いようにみえて最も強力なのがこの思想です。水の思想の筋金入り(笑)の代表が「斉藤一人」さんなんです。
⇒斎藤一人さんの本ただし、すべての人にすすめるわけでもないんです。たとえば、星座による性格分類でも「水・火・土・風」と4つの星座群に分けられます。水とか土とかいった「自然界にある象徴」で、性格を説明してるわけです。私の場合は「水の星座」だからか(?)「水の思想が一番しっくりくる」だけの話です。
結果が評価される世界、たとえば、スポーツなどでは「水」以外の思想が大いに役に立ちます。
さて、
水の思想が「結果を求められる世界」をどう見るかですが、それは「楽しいゲーム」ということになります。人生はいろいろ問題らしきものがでてきて、悩みもつきないわけですが、これもまた、「苦しみ」ではなくて、「楽しいゲーム」ということになります。まあ、物事を肯定的に明るく捉えるということです。
あくせくしないという意味では、「水の思想」は、ナンカとろそう(笑)な感じですが半分だけ(笑)そのとうりです。
一人さんによると
「運がないっていうけど、本当は誰だって運がある。生きていりゃあ、毎日毎日、今日が明日になり、明日があさってになる。誰だって嫌でもなんでも運ばれているんだよ。今日から明日へ。
じゃあどうしたら運勢がよくなりますかっていったら「勢い」をつければいい。たとえば、会社にいったとき、人の倍はたらくんだというつもりで働く。人の倍と言うとオーバーな話になっちゃうけど、
要は、自分が今やっているスピードよりちょっとだけ仕事を速くやればいいんだよ。難しく考える必要はないよ。今まで上司に何か頼まれたとき「は~い」と返事していたとするなら「ハイ!」と返事するとかさ。自分のできることからはじめてごらんよ。
そうすると、仕事って面白いんだけど、ちょっと速めに仕事をすれば仕事が楽しくなるんだ。回りからは、てきぱきと楽しそうに仕事していると認められて出世したりするんだ。たとえ、会社がつぶれても取引業者さんとかから、「うちにこないかい?」なんて誘われたりするんだ。
で、スピードを上げると間違いが多くなるって思うかもしれないけど、ダラダラやってるほうが間違いが多くでるもんなんだ。
間違えずに速くやる。これはセットなんだ。それで、間違わずに速くするにはどうしたらいいんだろう、って考えると、脳が勝手に働いて、タッタ、タッタできるようになるんだよ。
ただし、スピードを上げるといっても、どんどん、くたびれるほどやっちゃダメだよ。「楽しい」っていってられるペースがいいんだよ。」
(管理人)上のアドバイスのようなことをいっている一人さんですが、実際は、普通の会社社長と違い、かなり旅をしているそうです。つまり客観的にいうとナマケモノ(笑)ということになります。
お弟子さんが「学んだこと」を書いた本
⇒「斎藤一人 魔法のお悩み解決法―たった30秒で、あなたの顔に笑顔がもどる」著者「小俣 和美」さんの
⇒「お悩み解決室」個人的には「面白さNO1」
⇒柴村恵美子さんの本⇒「ついてるえみちゃん とついてる仲間たちの会」
- 2005/10/20(木) 09:39:51|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
「相対論」では「もともと一つのもの」が何らかの都合で「相対的に分かれているように見える」という見かたをします。「構成要素」は対等であり、もともと「善悪」などの対立があるわけではありません。
普通の人が価値がないと思っていることも『無用の用』ということで価値があると考えます。
で、「良いほう」についてはどうなのかというと「良いほう」も「相対的にいい」という考え方になります。
で、今日は「ここ
日本だからある程度、話せる話」をします。たとえば、皆さんが尊敬している人とかいろいろあると思います。私の場合は、たとえば斉藤一人さんです。皆さんの中には、最近では細木数子さん、とか江原啓之さん、とか、過去の聖者では「お釈迦さま」とか「イエスキリスト」とか「マホメット」とか尊敬している人もいるかもしれません。(っているでしょう。笑)
で、「ある事」を私は思っていました。そのあることを「同じように考える人がいるんだなあ」と思ったのが一人さんです。
⇒「斎藤一人とみっちゃん先生が行く―ウサギはトラのように生きる必要はないんだよ。」・・この本はお弟子さんの本の中では「かなりやさしい語り口」で一人さんとの会話のやりとりが書かれていますが、他の本とはちょっと違う「深いこと」が書かれています。
まあ、そんなのを含めつつ紹介していきたいと思います。
みっちゃんが「女子高生」のころの話。「自分は姉に比べて頭も良くないし自慢できることなんてないよ。」というみっちゃんに対し
「余計なおせっかいでごめんね。みっちゃんも周りの人たちも、頭が悪いとか、なにができないかにができない、っていうけれど、
できなきゃできないでそんなもんどうだっていいんだよ。
たとえばの話だけどね、泳げなければ浮き袋があればいいし、変な話、海に入らなきゃいいんだよね。それでさ、何ていうのかな、泳げない人のほうが溺れる率って低いんだよ。大概ね、泳げる人のほうが溺れちゃうんだ。泳げない人は水に近づかないもん(笑)無理にボートに乗せられちゃったら、いの一番に救命胴衣とか探したりして。(笑)
だから、泳げないことはマイナスじゃなくてプラスなんだ。魚で泳げないっていうのはかなり問題あるけど(笑)、人間は魚じゃないんだから別に泳げなくっていいんだよ。
たとえば、オレみたく学校の勉強はダメなヤツもいるんだよ。でもオレちゃんと生きてるよ。もちろんオレはエリートコースからみると、遥か彼方にいるんだよ。そしてこれは正しい見解なんだけど、それがどうしたっていうんだい?ということなんだ。
自分はダメ人間だって考えることに自分の頭を使っても自分のためにならないんじゃないのかな。
だってさ、人のことをエライと思うためにアタマを使っていると重くてしょうがないもん。
人間というのは他人をエライと思うためにそのアタマをのっけてるんじゃないよ、自分のためにアタマをのっけてるんだ。オレはそう思ってるんだ。だから、比較するなら他人と比較するより、昨日の自分と比較したほうが楽しいよ。」
(で、お次は、「ある話」です。)
「地球は太陽の周りを回っているけど、地球が止まっていると思っていても平気で生きていけるんだよね。だから、その発見ってそんなにたいしたことないの。人類がそのことを知らないときも、今と同じように生きていた。朝になればニワトリがコケコッコーって鳴くしさ、卵を産むしさ。必要なことは、つつがなく起きていたんだよ。
何をいいたいのかってね、おかしなことをいうようだけど、
世の中ってそんなに大切な話ってないの。たとえば、お釈迦様って偉大な人で、彼の教えで救われた人ってたくさんいるんだ。だけど、
仏教徒の人には申し訳ないんだけど、お釈迦様が出てくる以前から、人間ってがんばっていきていたんだよね。
キリストでもアラーでも、何でもそうなんだ。ああいう偉大な人が出てきてくれたから沢山の人が助かっている。だけど、その人たちの教えを知ってようがいまいが、みんな、幸せになるために知恵を出して生きているんだ。
だから、絶対これを信じゃなきゃというのはないんじゃないのかな、ってオレは思うんだ。」
(管理人)たとえば、キリスト教ですが、「イエスキリスト」をいくら崇拝しても、彼が出てくる前の人々は「不幸で救われない民衆」(=向こうの考え方では天国にいけない民衆)ということになってしまいます。
これを解決する口実は一つしかありません。「なんらかの理由でイエスキリストが出てくるまで人間は堕落した状態だったのだ」と、そして「何かによって、あるいは誰かが登場することによって」そういった人たちも救われるというシナリオです。
少なくとも彼は「何かを崇拝したがる人達、指導者として自分たちを救ってくれることを願う人達」の期待を裏切ったといえます。彼が「伝えたいこと」が「民衆から期待されたこと」とは違っていたからです。
「無数の中の一つの素晴らしい考え」ではなく、「唯一絶対に良い考え」として信じてしまう のは、余裕がない考え方であり、上で引用した「他人のことをエライと思うために自分のアタマをのっけている人」と同じだということがでいます。
もっともっと考え方を自由に学んでいくのがいいのではないかと思います。考え方や教えは時代や環境、本人の性格(?)で「同じ原則を違った表現をすることができるものであり、また重点の置き方が違っている場合もあるからです。」
同じ顔かたち、同じ考え方の人がいないように、違っているのが「当たり前」であり、つまり、
他人の考え、他人の人生ではなく、「自分を生きるしかない」のです。最後に・・詳しくは分かりませんが、調べてみたらお釈迦様は「自分を拠り所にすること」や、自分の教えを含め「法」というものは「いかだ」のようなものであることを話したそうです。
イカダは川を渡るときに必要であり役に立つが、向こう岸についたあとに、それを背負って歩いていくわけにはいかない。たとえ善い教えであっても捨て去るときには捨て去るべきなのだ・・という(ようなこと)を言ったそうです。
- 2005/10/16(日) 18:04:54|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:2
・・ちょっと前にとりあげた「太陽のほうが地球の周りを回っているのだという小学生の話」
私たちは、ある意味、「そのような小学生をバカにすることはできない」ということを話しました。ポイントは「本当は地球のほうが太陽を回っているのに、
あたかも太陽の方が地球を回っているかのように感じる(=錯覚する)」ということです。
で、ここで話している私のネタ(笑)の一つをバラしますと、それは「相対論」と呼ばれるものです。勝手に今名前を付けるとすれば「
普遍性相対論」とでもよんでいいと思います。
以下、普遍性相対論(・・といっても難しくありません)・・の考え方を見ていきましょう。
まずは物理学におけるアインシュタインの相対論です。・・科学としての見方はいろいろありますが、ここで、これを取り上げる理由は「相対論」にあります。
ニュートンは「時間はそれ自体として存在し、外部の何ものにも影響されることなく一定に流れる」と主張し、空間についても同様の説明をしましたが(=絶対論)、アインシュタインは、「特殊相対性理論」で時間と空間の尺度は絶対的ではなく、相対的であることを証明しました。
一つの「物体の運動」でも、それを
観測する人の運動状態よって「違ってみえる」という信じがたい理論です。それは、
勘違いしている小学生と同じように、体験上はそうは思えないからです。」・・論理や数学で宇宙の構造成り立ちを説明していく「物理学」での話だったためショックは大きかったのです。
・・「同じ物事が見る人によって違って見える」というのを認めると、「どちらも正しい」と主張するのは間違いではなくなります。・・
自分が正しいとしても、それ以外は間違っているとは必ずしもいえなくなります。そして、必ずしも「相手が言う正しさに合わせる必要もなくなる」といういいかたも言えます。
・・で、私がいう「普遍性相対性理論」(=物理の話だけでなく、全てが相対的なものにすぎないという考え方)ですが、これは「そう思えないように見えるため、ちょっと空想なんじゃない・・と考える人もでてくる」ことになります。
・・たとえば「妻や夫(=相手)が浮気をした」ということを考えて見ます。事実としてそう見えるかもしれません。しかし
「相対論」の考え方でいうと「自分のほうに浮気の原因があるから、あるいは自分のほうに原因を作ったからこそ、まわり(=相手)が浮気をするという事実に直面することになる」というようになります。・・太陽(=相手)が回っているように見えるからといって太陽に対しいくら文句を言ったところで、地球(=自分)が自転や公転をやめなければ(見かけ上は)「いつまでも太陽は地球の周りを回り続けることになる」ことにかわりはありません。
★相対論は役に立つのか?
たとえば、アインシュタインの相対論は「物理学者のお遊び」という言い方もできますが、一方でその理論を基に、様々な理論や応用が生まれ、とくに「現代社会の最先端技術」の基礎になっています。
別に、飛行機やロケット、携帯電話やコンピュータなんかなくてもいいんです。
「
あったほうがいい?」・・とするならば、それは、相対論(小さく言うと科学技術)は役に立つということです。
さて、アインシュタインの「相対論」も私の言う「相対論」も、実は
あることを前提にしています。背後に「相対論を成立させるようなもの」があるということです。・・そういうものがあるからこそ「相対論」というのが成り立つといってもいいでしょう。
で、ここで、普遍性相対論の応用を簡単な言葉で表してみます。
自分が変わったとき、あたかも回りが変わったように「見える」です。
これを理解したら、あとは、どのような考え方を持てばいいのか?・・というのが重要になります。違った考え方を持ち行動すれば、周りが(今までとは違うように見える)変化が起こるということになります。
最後に、ここで述べていることは「実はそう新しいことではありません」・・普遍性相対論を別の視点でいうと(時間的な要素をいれると)お釈迦様がいった「因果応報の法則」・・になります。
また、
私の考え方ですが、どうやら中国の偉大な思想家&謎が多い(笑)思想家である老子・荘子の考え方(=老荘思想といいます)に近いようで、彼らもまた「完全な相対的世界観」を提示しています。(いずれいろいろ紹介するつもりです。)
ついでにいうと「相対論」を支える(?)ものとして「すべてのものは一つであり、ただ違って見えているにすぎないのだ」というのも彼らの考え方の特徴になります。また相対論の考え方に基づくため「
普通の人が価値がないと切り捨てるものにも、実は価値があるのだ」という考え方をとります。彼らはこのことの説明として「無用の用」(下に引用あり)ということを話します。
「がんばる人」からみると(=正確には頑張ることを良いと思って頑張る人)は「がんばらない人」をダメ人間のように「浅はかに」判断する(あるいは感じる)かもしれませんが、
「頑張ることが素晴らしい」のと同様に「頑張らないことも別の意味で素晴らしい」のです。・・
因みに、面白い話があります。「アリとキリギリス」の話ででてくる働き者の「アリ」ですが、実は「働かないアリ」も結構いるそうです。・・そして働かないアリも「なんらかの役割があるのではないか?」というのが最近の研究で取り上げられており「企業などの組織論」としても考えられています。
⇒働かない「働きアリ」の役割
さて、老荘思想ですが、上にのべたような考え方をもとにした「
あくせくするなかれ!」という「癒しの思想」でもあります。・・この部分から「隠遁者の思想」と呼ばれることがあります。・・現代社会で流行している「表面的な効率主義」(←大きく言うと資本主義)とは対立することにはなります。
ということで、「資本主義」を今後もバサバサ切っていく(笑)ことになります。・・
★
無用の用大工の棟梁で石(せき)という人がいた。彼が斉の国を旅していたとき、神木となっているクヌギの大木を見た。それはとてつもない大きさで、枝だけで舟を作れるような太さがあり、そんな枝が数十本も生えているという巨木であった。
見物人が集まってまるで市場のようなにぎわいである。
しかし、石は振り向きもしないでスタスタと通り過ぎた。
弟子はじっくりと眺めてから棟梁に追いつくと言った。
「おいら、親方の弟子になってからこのかた、あんなに見事な木を見たことはありませんよ。親方はどうして見ないで行ってしまったんですか。」
棟梁の石(せき)は答えた。
「やめておけ、あれは役に立たん木だ。船を作れば沈んじまう、棺桶にすればすぐ腐る、器にすれば壊れやすい、扉にすればヤニが出る、柱にすればすぐに虫が食いやがる。役に立たん木だ。役に立たんからああして大木になるまで長生きしとるだ。」
石が帰宅すると、その夜 夢にクヌギの神木が現れてこう言った。
「お前はわしを何に比べているのかね。役に立つ木と比べているのだろう。梨やゆずなど実がつく木は、実が熟すと、もぎ取られ枝は折られてしまう。人の役に立つばっかりに苦しいめにあっとる。だから若死にもするのだ。
わしはずっと役に立たないものになろうと願ってきた。そのことが今、こうして大いに役に立っとる。もしわしが役に立つ木だったら、ここまで大きな木になることはできなかったろう。」
(↑)【荘子・人間世(じんかんせい)】
相対論による「物事の判断」については次のようなことを荘子は述べています。
流れる水はざわついているので、人の姿を映し出すことができないが、静止した水は澄みきっているので、あるがままに人の姿を映し出す。人も静止した水面のように澄みきった心境になれば、いついかなる事態に遭遇しようと慌てることなく正しい判断を下せるものである。
・・私は、これを読んで「古代日本の心」・・「清き明き心」を思い出しました。イメージで言うと「秋の夜、静かな湖面に満月が映っているような」感じです。
- 2005/10/11(火) 16:51:31|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
今日3本目の日記です。(笑)
野球人気が低迷するなか、巨人(今年5位)の次期監督が「原辰徳」さんになりました。
⇒「原辰徳流「活私」管理術―それは長嶋野球の否定から始まった」どうして、原監督を取り上げたかと言うと、わかりやすくいうと「
彼にはつきがある」からです。
つきがある・・というと「本人の資質とは関係ないように思うかもしれませんが、
ついている考え方を日ごろから(笑)しているからこそ、ついているのだ」というふうにいいたいと思います。
彼は、高校時代からツキがあったようです。巨人でも4番で活躍し、監督になってすぐに日本一になったりしました。日本一になってわずか2年で監督を解任のような形になったのは「つきがないのでは?」と思う人がいますが、それこそ「ツキがない考え方です。」・・当時の状況を考えると、こんなに早くまた巨人の監督に復帰することになったことのほうが奇跡的だといえます。
わずか数年しかたっていませんが、引退した当時と野球界の状況は大きく変化しています。チーム力の補強はこれからでしょうが、弱いといわれている投手陣も(くじを引いたのは堀内監督ですが)「大阪桐蔭の辻内の交渉権を獲得してしまったこと」は、さっそく幸先のいい話です。堀内監督が辻内を引き当てたように
まわりの人がツキをもたらしてくれるように見えるのも、ツキのある人の特徴です。原監督のもと「思わぬ活躍をする選手」が出てくることでしょう。
私はまあ、あんまり巨人ファンとはいえませんが、来期・再来期の原巨人に注目してます。・・スポーツの世界ですので、昔で言う戦とおなじく勝ち負けが結果としてはっきりでる世界です。
原監督は若いし明るいし、気配りも上手だといいます。期待していきましょう。公式HPもあるようですね。
⇒原辰徳「Hara Spirit」(原辰徳・今年の日記から抜粋)これまで、オープン戦やオールスターでセ・リーグの選手とパ・リーグの選手の対戦はありましたが、待ったなしの真剣勝負となると、日本シリーズしかありませんでした。いったいどのような戦いになるのか、やってみなければ分からないし、その分楽しみでもあります。そこで私だったらどのような戦い方をするか考えてみました。
まず考えるべきは、データの収集でしょう。しかし、戦ってもいない相手のデータというのは、信憑性に欠ける部分もあるし、あまりデータに固執すると、自分たちの野球が出来なくなる恐れもあります。相手の弱点や傾向を分析するのは大事ですが、その一方で相手に合わせることになり、自分の持ち味が消えてしまいます。
これは私の考え方ですが、あくまでも自分のスタイルを貫き、戦うことが先決だと思います。真のデータというのは、そこから生まれてくるのです。「相手がこうだからこうする」と言ったように、まだ戦ってもいないうちから相手に合わせた戦略を立てるのではなく、最初に「自分はこうやって戦うぞ」という戦略を立て、ベストの力を発揮できるようにするのです。失敗したら次に考える。成功しても、油断せずに次に相手はどうするかを考える。これが本当のデータになっていくのだと思います。
私は日本シリーズを戦った時、このような戦い方をしたつもりです。そういった意味で、交流戦は日本シリーズのような戦い方をすると思います。もちろん、データは大切です。細かい正確なデータがあればいいのですが、戦ってもいない相手の詳細で正確なデータを集めることには無理があります。はじめは誰が投げるのか、どういう選手がいるのかといった基本的な情報があればいいと思います。もちろん、クセなどの明確な情報があれば、それに越したことはありません。
以上はあくまでも交流戦が初年度の今年限りの話です。来年以降は、正確なデータを揃えることがより重視された戦い方になるでしょう。次に、交流戦はジャイアンツにとって得なのか損なのかを考えます。パ・リーグのチームは、特に必死に戦ってくるでしょう。そういった意味では不利のような感じがしますが、前に述べたように、データが不十分ということは、力と力の対決になります。そうなれば、個々の能力の高いジャイアンツが有利ともいえます。いずれにせよ、交流戦は36試合です。同一リーグの相手に勝つ方が有利とも言えますが、1勝は1勝です。36試合をどう戦うかは、優勝の行方を大きく左右する試合数でもあります。楽しみに応援していきましょう!
- 2005/10/06(木) 19:16:03|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:2|
-
コメント:0
ちょっと前に「太陽が地球の周りを回っている」という小学生が増えているというニュースを目にしました。
・・事実とは違いますが、「経験的には太陽が地球を回っている感じがしないでしょうか?」
ガリレイの時代でも「地球が回っているなら
空気(=大気)は動かないはずなので、地球上には常に強風が吹き荒れているはずだよ。どこにその強風があるんだい。」・・このようなことをいってあざけ笑う人たちも多かったといいます。
「太陽が地球の周りを回っている」と言う小学生を笑い飛ばす人もいるでしょうが、現在という時代に生きている普通の人(=ほとんどの人)も「この小学生」と似たりよったりといえます。・・これから書く話も別に私が新しく発見したのでもなんでもありません。
すでにわかっている話です。
たとえば、私達は「ある感覚的な?世界に生きています」・・ニュートンのいう「ユークリッド幾何学」が成立するという世界です。
たとえば「平行な直線はどこまで行っても交わることがない」・・というのは「
経験上は」真実のように思えます。
残念ながら「現代物理学」では
必ずしも正しいとはいえません。・・間違ってはいないが「不十分」であるということです。・・ある条件の時にしか正しいとは言えないということです。
その前提とは「私達が感じている世界観」です。(=太陽が地球の周りを回っていると感覚的に言っている小学生と同じレベルとさえいえるかもしれません。)
・・「空間なるもの」が宇宙に広がっていて、其の中に銀河があり、太陽があり、地球があり、そして、人間がいる。そして
この宇宙という「均一の空間」の中で「時間」というものがどこでも一定に流れているというものです。
世間の人は(必要性がないので)そのようには感じていませんが、現代物理学では、このような世界観を完全に壊しました。壊したといっても間違いと言う意味ではなく「普遍性がない」という意味です。普遍性がない・・とは「ある条件でしか成立しない」という意味です。(⇒私が言う「この世はある意味、幻想の世界である」とは、特別な条件でしか成立しない世界 という意味もあります。)
・・またこの新しい考え方では、より統一的な見方を提示していることになります。それは、時間や空間というのは物質(=存在)と独立してあるのではなく、物質(=存在)の性質に「時間や空間」というものが含まれている(=時間や空間と物質は無関係ではない)ということです。
・・もちろん、この日記では、もっと進んで「精神や心と外部世界との関係」、つまり
「自分の思考や概念と全く無関係に物事が起こることは(表面上はそう見えないかもしれないけれど)ないのだ。」というテーマで書いています。
さて、平行線が交わることの説明として地球(球体)が使われることがあります。赤道上で平行な2つの直線は極(北極や南極)で交わることになります。
まったくの平面を考えると平行する2直線は交わることはありませんが、球面なら交わることになります。そして「平面の思考」しかできない人にとっては不思議な現象のように見えます。で、今私達のいる世界も実感としては感じませんが「空間」に歪があるようなのです。時間の流れも一定ではありません。(私達の感覚からすると・・歪は小さいので・・普通の意味では、無視していいということになります。)
で、最初に戻りますが、このようなことを「現代人なら」もう少し知っておいてもいいのではないかと思うのです。
要らないといえば要らないのですが、それでは「太陽が地球を回っている」と感覚的に考える小学生とさほど変わらないということになります。・・でもまあ要らないかもしれません(笑)。
というのも、人類の歴史を見ると「人類は徐々に進歩していっている」という考え方には疑問符がつくからです。(数百年程度の単位で一定の地域を見ると進歩しているように見えますが、あとでゆり戻しもみられます。)・・1996年にベストセラーになった
⇒グラハムハンコック「神々の指紋」上下と言う本でも、現代文明の前に高度な知識を持つ文明が存在していたのではということを強烈に匂わせていました。(筆者の憶測も多いですが、逆にそこが面白い本です。)
⇒グラハムハンコック「神々の世界」上下興味のある方はオーパーツ本(=その時代の技術を超える出土品の紹介本)も。
⇒オーパーツの謎の迫る「特命リサーチ200x」より。
⇒インドの錆びない鉄柱「特命リサーチ200x」より。
。
⇒コスタリカ巨大石球群「特命リサーチ200x」より。
⇒「オーパーツ大全~知の冒険シリーズ」 2005年7月12日
(感想抜粋)世界中で出土しているオーパーツ(その時代にそぐわない遺物)を一同に集めて展示する「未解明の謎展」という、ありそうでなかった試みを行った著者が、展覧会を開くまでの経過を綴りつつ、既存の定説にしがみつき身動きの取れなくなっている学者の現状を批判する。
単独で発見されたオーパーツは、従来の学説にそぐわないから偽物と決めつけられ闇に葬り去られるのが常であるが、数百点もの遺物を一度に見せられると、現在の定説の危うさを感じずにはいられないだろう。また、それらに共通の特徴(未解読の文字同士の形が極めて似ている、など)が見られれば、「偽物」と決めつけることの方に無理があることがわかるだろう。それがこの展覧会の目的である。
著者はオーパーツから普通に考えられる理屈を述べているだけで、著者独自の理論などは語られていない。そのため、若干ワクワク感に欠けるきらいもあるが、ここに登場するオーパーツの魅力(初めて目にするものも多かった)がそれを十分補ってくれる。
「探せば世界中にオーパーツはいくらでもある」ということを教えてくれる本書は、従来の学説を再構築する流れのきっかけに充分成り得る画期的な本だと思う。(感想おわり)
このような話(オーパーツではないです。笑)、特に「時間」というものについて今後いろいろと取り上げていきたいと思います。
脱線しますが、英語で言うと(笑)
What is time? です。
「今何時か?」ということではなく、「時間とは何か?」という意味です。
新しい考え方(?)には(人間を含めて)「物質には時間という要素が内在する」というのがあります。・・この内在とは、「物質のなかにいると・・(一直線に流れる)時間を体験する」ということです。
(追加)★特命リサーチ200x・・気になったので(笑)・・オーパーツよりためになる?
⇒「気配の正体を調査せよ」。
⇒「なぜ落雷の直撃を受けて助かることができたのか?」。
⇒「イルカに人間を癒す力があるのか?」。
⇒「ニューヨークで行われた驚異の犯罪撲滅プロジェクトを追え!」。
- 2005/10/06(木) 14:11:06|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
今日は「細木数子」さんの特別番組をみて、書いてみます。
とても勉強になりました。特に教育において・・「ゆとり」ではなく「余裕」が必要・・余裕が「やる気」を生む・・という言葉は、本質をついた素晴らしい考え方でした。
「人生を急ぎすぎない。ゆっくりと焦らず生きる。」・・(言葉にしなくても)このような考え方がもてる現代人が少なくなっているといえます。
前「女子高生スペシャル」の時も書きましたが、たとえば、「親に感謝することの大切さ」は、
単なる道徳としていっているのではないということをいいました。(今回は、父親が好きという女子高生が増えてました。いい変化です。)
それは、「あなたの観念が受け付けないかもしれない話」ということで話したことでもあります。それは、
自分の親や環境は自分で決めて生まれてきているということです。
あなたの観念が受け付けないかもしれない話・・ 細木数子&江原啓之の番組を見てこれは、残念ながら「証明することができません。」(ただし、
通常の法則のように、この理解をもとに結果をだしていくことができます。)
・・(注 証明という考え方も、自分が(=生きている人間が)理解できるという程度の意味しかありません。・・証明されなけれ存在できないとすれば、すべての根源は「証明」から生まれる(笑)という変なことになります。
簡単に言うと、小(=証明)に大(=存在のすべて)を含めることができないということです。・・逆に存在から証明が生まれたと言うこともできます。つまり証明も「世界を理解する一つの方法として人間が考え出した」ということです。 最先端の物理学者は、その程度の意味でしかないことに気づいている人も多いといいます。)
あの世についても同じことで、究極の真実(←あるとしたら)とは別に、
「
この世が存在するというなら、あの世も幻想でない」ともいえるし、
「
この世は仮の世界に過ぎない ということを貫徹できるなら、あの世も幻想にすぎない」ということもできます。
もちろん、このようなことを、どうしても受け入れられない人もいます。・・特に、「そうかも知れないね」という反応ではなく、「絶対信じられない」という場合です。ですが、これはこれで意味があるといえます。
あの世が確実にあるんだ・・ということを知ることで充実した人生を送れる人もいれば、あの世がない・・と思うことで、今の一瞬一瞬を大切に生きることができる人もいるからです。
「一瞬一瞬の大切さ」を知ることが主ならば「あの世のことはどっちでもいい」ともいえるのです。(難しくいうと、未来も含め、あらゆる存在がすでに存在しており、どんな形であれ、自分は単に「今」を経験していくだけ・・ともいえるのです。)
ですが、強烈に否定したい気持ちがあるならば、それは、(私から見れば)ある意味、
それこそ何か大きなものの目的があって、その人の人生が進んでいる・・ということを単に表しているだけということになります。・・だからこそ「その想いを大切に」ということです。
細木さんの番組で教師たち(50人)が出演していました。・・細木さんはよく「根本から」ということを述べます。
この日記で「価値観をもった国づくり」という言い方で「健康大国」ということを述べました。これは、他にもあります。たとえば、「環境大国」です。・・日本ほどそれをやるのに適任の国がないともいえます。
賛同する国たちと新たな関係が生まれていくことでしょう。
他には「
精神大国をめざす」というのもあります。日本だけでなく、アメリカや中国をみていて感じていることがあるんですが、たとえば、中国には孔子や老子を始めとして「素晴らしい精神文化」を誇る時代がありました。そして後の世にも精神遺産を引き継いでいった時代がありました。しかし、(特に現代になってから)、そういった過去の精神遺産から教育制度を恣意的に使うことで、国民が学ぶ機会を奪ってきました。
単純な話でも、今先進国では「資本主義」を採用しています。もちろんプラス面もありますが、これが本当に素晴らしいシステムなんでしょうか?・・つまり、もっと下のレベルで使うべきものなんです。資本主義で、「原油の価格が高騰したから国が集まって話し合う」って、そろそろ(重要なことから)資本主義やめたらといいたいところです。・・私たちは、そんな「あぶないシステム」(笑)の上に経済繁栄を誇っているわけです。
そういったのとは別に、もたらす結果が地球をダメにするレベルまで来てしまっています。・・
因みに、私が知っていつも愕然とするのは、次のようなことです。
アマゾンで熱帯雨林が毎年「日本の四国と匹敵する面積だけ減っている」・・家畜を飼うためです。・・それは、
消費大国「日本」へ輸出するためにです。
、東南アジアでマングローブの森(下は海面)が物凄い勢いで破壊されている・・エビを養殖するためです。エビ養殖では、養殖の条件があるそうで、次々と新しい「養殖地域」を確保しなければなりません。
エビの最大の輸出国は、
日本です。・・日本国民が意識してないところで、実は地球温暖化に直接つながるような原因を作り、事態を悪化させているわけです。
実は、日本を「精神大国」にするために「すぐできる方法」があります。それは、教科で言うと「倫社」・・つまり「哲学」を受験の必須科目にすることです。(たとえば、センター試験に必須項目として取り入れることならすぐに実行できます。)
もちろん、ただの「受験科目」としてしか考えられない人もいますが、多くを学ぶ生徒が増えることでしょう。
本当は、もっと広い意味、硬く言うと「人生学」見たいな感じで、過去の思想家のほかに、偉人、たとえば、織田信長とか、豊臣秀吉、とかの人生を学ぶなんてことができます。
これは、小学生からも可能です。というのも、自主的ではあったんですが「私も、小学生のころ」、いわゆる「伝記」といわれるものを相当読んだことがあるからです。
ところで、
人生に対する見方を、人はどこで学ぶでしょうか?・・たいていは、家族や周りの生き方であり、尊敬するアーチストやTVにでる人たちです。しかも、たいていは「まだ生きている人」(笑)です。
一方、過去の人は「いい意味でも、悪い意味でも、人生を全うした人達」であり、そうした人の人生を
一生という大きな視点から学ぶことができます。・・ついでにいうと「このような事を、社会人になってから、自分の意思で学んでいる人もいます。・・もちろん暗記のためではなく、
考え方を学ぶためであり、人生のさまざまな場面でどんな決断をして結果どうなっていったのか・・ということを学ぶためです。」
・・これらは、もっと早い時期から「学んでもいいではないでしょうか?」というのも、「考え方というのは、当然なんですが、利用範囲が驚くほど広いんです。日常の生活から高度なものまで何に対しても使うことができます。」
もちろん、個人個人が自主的にすることでもありますが、「精神大国」として、国を挙げて「奨励」していくとしたらその影響は計り知れないでしょう。・・(当然ながら、その過程では、生徒だけではなく教師も学べることになります。ついでに親も・・笑)
さまざまな考え方・・違った見方・・を学ぶとは素晴らしいことです。(同時にこれは、権力側の人達にとっては脅威になります。)・・選挙(や民主主義)は国民の声といますが、国民にいろいろな見方を学ばせたうえで「判断してください」ではありません。
・・歴史的には、たとえばアメリカは「マスコミ」が登場してから、明らかに「イメージ戦略」(=世論操作)を国の中枢が画策しています。
(日本では、現状では自民党が先陣を切っています。)
「新しい見方で考えること」は(普通の人が)「思っている以上に強力です。」・・そして、これは「意識の変革」です。・・
いいのか悪いのか「意識の変革なんてやだよ」という人がいます。「しょうがないなあ」(笑)ということもありますが、残念ながら「多くの領域で意識の変革が必要とされています」。
「痛い目にあってから意識をかえるか、痛い目に合う前に変えるかです。」・・現状は、痛い目にあうのはわかるけど「そんなに痛くないんじゃないんじゃないの?」「どうも実感わかないし自分には関係ないんじゃないの?」という感じです。地球温暖化なんていう「はっきり指摘されていること」でさえそうです。
実際は「何か問題が生じたとき、それもすぐに解決策が浮かばないような問題が生じたとき、
これらすべてが痛い目にあっているという症状です。」・・犯罪などの増加もそうですし、自然災害もそうです。
- 2005/09/28(水) 00:40:33|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:0|
-
コメント:0
「女王の教室」というドラマの最終回の視聴率が25%を超えたそうです。私も見ました。
「女王の教室」公式HP小学校6年担任の鬼教師。生徒に対してひどいことをしているように思えたが、実は、自らが生徒の壁となって、生徒に試練を与えていただけだった。実は生徒に対する愛情にあふれる先生だった。
・・私はドラマの前半の回は見てなかったんですが、「放送をやめろ!という抗議が沢山寄せられた」というのを知って(まんまと乗せられて・・笑)後半はずっと見ていました。
・・とても「コメント」が書きにくいドラマです。私自身もいわゆる「今の教育委員会ならすぐやめさせられるような『ひどい』担任に小学5~6年のとき受け持たれました。立たされたり、耳がキーンとなるほど殴られたり、毎日、日記を書かされて、時に反省文を日記にかかされたり、内容次第で、また、朝から立たされたり(笑)してました。反省が認められると「殴られて、許してもらえました。」(注意;こういう話では、記憶が鮮明なことだけを話すのが常であり、毎日毎日が・・こうだったというわけではありません。)
・・今の生徒なら親などに話して表沙汰になると思いますが、当時、私の田舎では、まだまだ「先生=聖職者」という父兄の見方があり、悪いのは先生の言うことをきかない子供のほうだから、少しカツを入れられるぐらいのほうがちょうどいい・・みたいな感じでした。だから、親に話せば先生に知られて「また殴られる」といった「イジメの構造」に見られるような恐怖心がありました。
今考えると「このころの酷いことが、自分の糧になっていた部分があったことがわかりますが」その頃は、基本的にはその先生に「消えてほしい」(笑)と思っていました。
その先生は、実は2年後(私が中学2年のとき)・・消えてしまいました。(笑い事じゃないですが・・笑・・酒の飲みすぎで肝硬変で亡くなられました。)
さて、私がみた「放送分」だけの感想を書いてみます。担任の先生のアノ雰囲気(笑)は個性だとしても、
・・子供たち(小学校6年)が素晴らしすぎている
テレビドラマだから「お約束」なんでしょうが、「いわゆる背景というか、真矢先生が実は内心では愛情あふれる先生だということ」が見ている視聴者にはハッキリわかるようになっているということもあり、私自身は最終回の感動が、「無理やり感動シーンを作ったので感動してください・・という感じに思えました」・・
ドラマの登場人物に対しこんなことを言うのも変ですが、事実「真矢先生が
まだ本当はどんな先生かわからなかった時点で(=前半の回の放送時)、ひどい先生という勝手なイメージを持った視聴者からのドラマへの猛抗議があった」ということは注目に値します。
子供たちが素晴らしすぎるというのは、「一度持ったイメージを修正するのには時間がかかる」 ということです。酷いことをするのは、イジメとかじゃなくて本当は生徒たちが強くなれるように、また、もっと考えるようになるための愛情表現だった・・ということですが、生徒達が、最初に持った「怖い先生・酷い先生」というイメージを、もしかしたら違うのではないかと考え、それを見抜いていって「先生に対するイメージを変えていった」ところが素晴らしすぎるのです。(まあ、素晴らしいことは・・いいことです。)
実際は、そこまでの心境になかなかなれるものではありません。だから、ある意味「スーパー小学6年生達」なんです。普通は、たとえば、親がいうことを子供が聞かない、納得できないというのが当たり前で、反抗期なんていうのもあります。(たいていの親は愛情から?いろいろ言ったりしていることは確かでしょう。)
子供達は、すぐに悟って「親の言うことに耳を傾けるでしょうか?」
世の中の普通の大人だって「相手に対し一度持ったイメージを変えるのは、よっぽど意識的にならないと、あるいは、それだけの器がないと難しいといえます」
もちろん、今の小学生(5~6年)は、昔と違って「物事をよく理解している」のかもしれませんが、実際聞こえてくるのは(極端な例だから聞こえてくるのかもしれませんが)「学級崩壊・イジメ・学力低下・モラルの欠如・・あるいは、大人が持っている変な先入観をそのまま持っている」といったことです。
因みに「愛情をもっていれば、ひどいことも、OKなんだ」というのは「役に立たない古い考え方」です。
ここで、話がカナリ!!飛躍しますが(笑)、たとえば、広島・長崎の原爆投下について次のようにいう人がいます。あなたは「この考え方を支持するでしょうか?」
・・
アメリカが原爆を落としたからこそ戦争が終わったんだ。日本の天皇、軍部は、原爆でも落とさなかったら戦争をやめようとは思わなかっただろう。そうすれば、原爆死傷者数以上の犠牲者がでていたかもしれないよ。・・原爆を・・アメリカ合衆国の愛情だと受け止められる人は、よっぽど「器の大きな人」だといえます。(あるいは、別の目的で正当化する人たちです。) 私も器が小さいようです。原爆投下を機に、大国アメリカが、自ら先頭にたって、核廃絶を唱え、実践してきていたのなら「このような考え方を受け入れるかもしれませんが・・」
さて、私たちも「女王の教室」の小学6年生たちのように、素晴らしくなれるでしょうか?
・・
悲劇や悲惨な出来事というのも全て、私たち自身が学び成長するチャンスとして偶然ではなく必然的に起こっている・・このような考え方を受け入れられるでしょうか?
宇宙は一見厳しいとも思える現実をつきつけてくるけれど、実は愛情を持ったやさしい教師なのだ。・・こうした考え方を受け入れることができるでしょうか?(現実の世界は、ドラマのように意識しなくてもはっきりとわかるようにはなっていません。)
(注:苦しみを通して学ぶというのも、一つの学び方と見ることができます。他の学び方も沢山あるのに、否定的に体験するという選択を選んでいるということができます。)
・・女王の教室 の話としていうなら、
ただ単に、同じことを学ぶのに、あんなふうにやらなくても、「苦労も少なく、もっと明るく学ぶこともできるのにね。」というコメントになります。
もちろん、このドラマを見て、単に、「真矢先生が実は優しい先生でよかったね」だけでなく、それ以上のことを学べる小学生&中学生&・・がいるかもしれないことを考えると「素晴らしいドラマ」だと思います。
- 2005/09/20(火) 19:47:05|
- 「発想転換」日記|
-
トラックバック:1|
-
コメント:0
次のページ