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抵抗の明け渡し

「抵抗の明け渡し」とは西欧人の学者が使った言葉ですが、これは東洋人の私たちにとっては「ゆだねること」「執着を断つこと」を意味します。

とはいっても、東洋人も現代は、生活だけではなく、意識的にも、かなり「西洋化」されてきたのは事実ですので、この「抵抗の明け渡し」という考え方をとりあげてみたいとおもいます。

心の世界を話すとき、でてくる言葉に「自我」というのがあります。
某学者によると、

『自我とは自分の「代用品」と同一化した偽りの自己である。』です。

具体的には、自己を「自分の代用品に投影する」ということです。
(この部分の考え方が東洋的には執着という考え方になります。)

たとえば、ステイタス・シンボルとして高級車に乗っている人がいるとします。彼は高級車に乗ることで自分を偉いと思い、また人にも思わせようとするかもしれません。この状態が「自我が代用品と同一化している状態」の一つの例です。高級車に乗ることと、その人の価値とは無関係なはずなんですが、そのように錯覚するという心理構造です。

ここで「なじみの(?)疑問がでてきます。」
「高級車を乗り回すのが悪いことなのか?」です。(あるいは、高級車を乗り回して何が悪いんや」という開き直りです。)

悪いことは全然ありません。高級車だってデザインを考える人がいて、また多くの従業員の手をへて、いろいろな人たちの思いがあって販売されています。ただ、背後にある考え方(とそれにまつわる感情)のことを話していきたいわけです。

もし単にそうするのが楽しいから贅沢な車を運転したいのなら、それはそれで悪くも何でもありません。ですが、もしこういう車を運転することが自分をより重要な人間にすると感じたり、運転しているところを見られたかったり、“私のもの”であることを誇示したいのだとすると、問題があります。 

私も1ヶ月間ぐらいは(笑)こういうことをして人をビックリさせてみたいですが(←ガキそのもの)、多分すぐに飽きるでしょう(笑)。問題があるのは、し続けようとする心理です。し続けるとした場合「空虚感とか、何かに対する怖れ」みたいなものが脅迫観念みたいな形であるからです。

さて、人が「代用品」に依存しているかどうかは、すぐに(?)分かります。代用品が破壊されたとき、(それを失くしたと想像しただけでも)自分を失うように感じるからです。

依存してない人もいます。たとえば、芸術的価値も高く、高価な壺を、なんらかの不注意(つまりワザとではなく)割られてしまったとしましょう。その壺を持ち主は大変大切にしていました。

(普通の感覚では)「大変なことをした。怒られるだろうな・・。賠償金、どのぐらい請求されるんだろう。・・」と考えると思います。

ところが、壺の持ち主は「お怪我はありませんでしたか?この壺は、確かに高価なものです。しかし、形あるものはいつか壊れるものです。ここに置いていたのは、来てくれた人に美しい壺を見てもらうためなんです。だから、何かの拍子で壊れることだってあるんですよ。壺が壊れたのは壺の寿命なんでしょう。ハハハ・・」

..さすがに、真のお金持ちは違うなあ(笑)・・と感じたかもしれませんが、この壺の持ち主は「壺を自己の代用品としてみてない」といえます。

次です。
某学者は、(精神的な意味あいでも)自己と同一視した代用品を破壊することで自分を取り戻す試みは失敗に終わると述べています。

代用品といっても、物だけでなく、名声や肩書き、高尚なところでは「自己発見」とか「悟り」のようなものも含まれるといいます。

「自分の行動がすべて抵抗であることに気づかないと、たとえば、悟りを得るための何らかの方法、行動があると信じてしまう。・・・自分には選択、代替案があり、逃げ道があると考えるのだ。・・・個人が統一意識(=悟り)を“手にする”ことができない理由は、本人がそれを求めているからである」

悟りのような高尚な(?)ものを求めていながら、求めるから得られないとはなんというパラドックスなんでしょうか?

(管理人 お金については、この考え方をこの日記で話したことがあります。金持ちになろうとするとき、金持ちでない自分への否定があり、抵抗がある。「金持ちでない自分からの逃避」があるわけわけです。今の自分からの逃避、否定が強いとき、宇宙は「自分は今お金持ちではない」という思いが強いのを・・願いと勘違いして(?笑)・・現実化してしまうということです。)

某学者の説明によると「人生の何らかの側面を嫌っているとすれば、統一意識の何らかの側面に抵抗していることになる。なぜなら宇宙意識とは、すべてが統合された分裂なき状態だからである。こうしてわれわれはひそかではあっても、進んで統一意識に抵抗し、それを否定するのである」

次に「抵抗の明け渡し」がでてきます。
 「自分の動きがすべて、今の自分から立ち去ろうとする一つの抵抗であることを本当に理解すると、抵抗の陰謀全体がゆるんでくる。自分のあらゆる動きのなかに、この抵抗を見るようになると、自然に抵抗をすべて明け渡すようになる。この抵抗の明け渡しこそ、統一意識の開示であり、無境界の自覚の実現である」

では、この考え方を「どのように応用できるでしょうか?」


↑で抵抗の明け渡しと言っていますが、「抵抗を明け渡そうとする」のも一種の抵抗といえます。水泳選手は速く泳ぐために水の抵抗を少なくしようとしますが、仮に抵抗がなくなれば前に進むこと自体できなくなります。ですので、抵抗そのものは、あるのが当たり前であり、あってよいのです。感覚的には「意識的に選択すること」の一方で、「その結果はある程度は成り行きに任せる」という能力が必要だと(個人的には)理解しています。

(もう少し見ていきます。)

この原則を理解している(かのように)行動し、素晴らしい結果を残していたという調査もあります。まあ、アメリカの場合、このようなことを調査していたりするわけです。

..癌などの難病で助からないと思われていた患者が、後に奇跡的な自然回復をしたケースを収集・調査した。すると、そうした患者は心理的に常人とは違う境地にあったことが判明したという。

 すなわち、彼らはなにがなんでも絶対に病気を治すと息まいていなかったというのだ。病気が奇跡的に治るようにと必死の願かけもしていないし、宇宙から癒しの力を引き出そうとしゃにむになってもいなかった。ただ病気の存在を含め、すべてがあるべくしてあるという、受容と感謝の心をもっていただけだという。

(管理人..医者+世間一般の思い込みに、「○○で病気が治るんなら、世の中、医者なんていらないよ」というのがあります。しかし、最近では、「白い巨塔」の財前吾郎も(笑)驚くような統計が発表されています。上でいった、受容と感謝もあるけど、もっと取り組みやすいものがあります。それは、なにかというと...........笑いです。

病気の人たちに「お笑い」を見せたり、実際に芸人にきてもらったりする治療です。(病人の人たちは「治療」だとはおもっていないでしょう。)生存率や回復率に目覚しい違いがでてました。・・もちろん医学的には、笑うことで自律神経がどうだとか、キラー細胞がどうだとか、結果、免疫力がアップしたからだという説明がなされます。


因みに、斉藤一人さんは「病人らしくないことを考えること」を話しています。上の例では、病人が「お笑い」をみてゲラゲラ笑うというのは、まさしくラシクナイといえます。(病気の波動を笑いの明るい波動で中和する、打ち消すというわけです。心が暗いとき、知らないうちに笑いを忘れていることはよくあるものです。)


この考えを分析するとき、「指示的・非指示的」という観点を学ぶことができます。

指示的な願いのなかには、何があるのかというと「自我」があると考えられるのです。自我とは境界であり、それがゆえに抵抗です。
相手のためを思っているようでも、指示的な願いという形で「自分の要求や期待が含まれる」ことはよくあることです。..ストーカーなんかでも、情熱的な人だと受けとられないのは、「自分の要求や期待」が突出し怖さを与えているからといえます。

祈りの場合についても、

結果がどうであれ、ただ相手が幸せに、よくなるようにと祈ること、あるいはただ愛の念を送るだけの場合には、自我の介入はかなり少ないように思われます。

それはまったくの「受容」的な態度であり、「世界の英知にすべてをゆだねる」気持ちであって、自我の欲求を押し付けようとする作用がありません。 それは無条件であり、取引の要素がありません。そのため、自我という境界がなく、祈りのエネルギーがより一層、相手に伝わるのだと考えられます。そこには相手との一体感があるからです。

(東洋では無我の境地などという言葉があります。無ということばがとてもわかりにくいというか、つかみにくいんですが、以上のことから、一体感ともいえると思われます。そして、一体感の考え方から生まれてくるものがあります。それは、どういうときに一体感を感じるかを想像してみれば、いろいろとあることに気づくでしょう。たとえば、「協力」とか「信頼」です。)


さて、(話は飛びますが)新しい家を建てるとき「足場」つくる必要があります。足場は「あたらしい家を作る」のに絶対に必要であり役に立つものです。しかし、新しい建物ができたなら、足場は不要になり解体される運命にあります。


この足場に当たるものが「自分=すなわち自我」なのではないかとおもいます。そして、人は「次々と新しい家を建てるのではないか?」ということです。 そのなかの「足場を解体する」作業が(小さいものであっても、たとえば、大切なものを亡くすとか)自我の喪失を引き起こす出来事ではないかと思います。

別の言いかたでいうなら、たとえば、魂(=大きな自己)が、謙虚さを学ぶという人生の目的達成を考えたとしたら、プロセスとして、まず、傲慢さを経験し、そこから学ぶことで謙虚さを知るというシナリオを書くといえます。

傲慢であることも、プロセスとしては役に立っているといえます。こう考えると、この世には、実質的に「失敗」などは存在せず、むしろ失敗は、超意識=魂の人生計画が「成功」したことの証でさえあるかもしれません。人の傲慢さも、長い目で見るならば、それは学びのプロセスにすぎないことがわかります。学んでいくことは何であれ、美しいことです。

(注 体験したいなら別ですが、傲慢さがもたらすものをわざわざ実体験として経験する必要はありません。その体験を通して「感じること」「わかること」にただ気づいて考え方を変えればいいだけだからです。これは、個人の意識で決められるともいえます。でも体験してみたいというのも人間です。超お金持ちが貧乏生活を体験したい・・笑・・みたいな・・笑..ものかもしれません。)

斉藤一人さんをよく取り上げていますが、彼は毎年納税額TOP10にはいるようなお金持ちでもあります。彼が、どうやって相手をやっつけるかというアイデアを話しているのを弟子の社長さんが聞いたことがあるといいます。ところが、それを実行に移そうとするのを見たことがないといいます。それについて聞いたところ、

「別に、実際に実行する必要なんてないんだ。頭のなかだけでいろいろアイデアをだしてやっつける方法を考えるのも、楽しいことなの。実際やろうとすれば、多分できるだろうけど、向こうも抵抗してくるだろうし、やっつけたとしてもいい気持ちはしないんだよ。それより、相手と友達になったり、仲間になったりしたほうが楽しいよ。秀吉が天下を取ったのだって、彼が相手をやっつけようとしていたからじゃないんだ。争いの時代にあって、相手も仲間にしようとしたからこそ多くの人が彼についていったんだ。」

というようなことを(確か)いっていたように思います。

非指示的な観点からくる「テクニック的な方法」を話したことがあります。「疑問文として問いかける方法」です。その話は、興味のある方は「原因と結果の法則」の講を
御覧ください。













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  1. 2005/07/11(月) 13:00:51|
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