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----------------------------アフィリエイトサイト管理人の「発想の転換」日記~「楽しい精神観念論」

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ドラゴン桜に思うこと

現在、面白く見ているドラマにこんなのがあります。なんともいえない爽快感もあるドラマです。
⇒ドラゴン桜


このドラマは人気となったコミックをドラマ化したとのこと。
⇒コミック ドラゴン桜9 ⇒コミック ドラゴン桜8
⇒コミック ドラゴン桜7 ⇒コミック ドラゴン桜6

⇒コミック ドラゴン桜5 ⇒コミック ドラゴン桜4
⇒コミック ドラゴン桜3 ⇒コミック ドラゴン桜2
⇒コミック ドラゴン桜1

機会があったらコミックを読んでみたい気がしますが、簡単に言うと「幻想のなかでもがいている人に対する応援話」という感じがしました。

ポイントをあげてみます。

自分のことを「能力がない」と思っている人が、どうやったら難関といわれる東京大学に入れるか、そのための発想や勉強法を学ぶこと

爽快感があるのは、「自分には能力がない」とか「東京大学に入るのは難しい」といった幻想(固定観念の一つ)を打破していることが背景にあるからでしょうか?

いずれ(?)、いろいろ話したいと思いますが、私はいわゆる「能力がない」と思われていた子供でした。小さい頃(小学生低学年)学校の図書館から借りて何気なく読んだ本は、結構役立ってくれた気がします。

頭の良し悪しについては、「人間は頭の1%も使っていない」ということを前提にしてましたし、アインシュタインのような凄い人でも「勉強がはじめからできたわけではない」というようなこともそのころに多分知ったと思います。

まあ、単純にいうと、「人間、やればできる!」ということです。ただし、「周りの人と同じような考え方、同じような方法でおこなうとすれば、今自分がいる位置は変わらないだろう」という気持ちもありました。

能力がないという意味では「運動について」も同じでした。小学生の頃って、勉強ができるとか、スポーツができる子供というのは「人気があるもの」です。人気がある(=つまりモテル)生徒は、よく女の子の誕生会に招待されていました。

私は・・勉強は、ほどほど、スポーツにいたっては、マラソンでは、ビリッけつを争ってましたし、運動会のリレー選手としてクラスの代表にさえ選ばれない状況でした。当然、誕生会にお呼ばれされることもありませんでした。

その後(回りの人の言葉でいうと)「奇跡」がおきました。
といっても、(自分としては)自然にそうなったわけではありません。

結果が変わりはじめたのは、中学1年ごろです。勉強ではクラスや学年でトップ、足だってパットしない自分が、リレーでクラス代表に選ばれるようになったどころか、住んでる町でトップクラス、地域の大会の100mや、200m走でも、優勝争いをするほど早く走れるようになったんです。

もちろん、これには「続き」があります。高校(そこそこの進学校)に入ると、自分の成績は半分よりやや上と言った感じです。高校での成績は、高校2年生ぐらいから、その後、全校生徒(同学年)のなかで常にトップの成績のままの教科さえもありました。

実は、高校生になって「やっと体得したこと」もあります。それは、マラソンです。苦手な人ならわかると思いますが、スタートして、数100mも走れば(笑)、疲れて、もうやめたくなるんです。短距離では中学時代に成果をだしたわけですが、長距離は相変わらず苦手でした。

なにしろ、いわゆる「ビリッケツ集団」(笑)の常連だったからです。
実は、これについては、「自分のなかの何かのバランスが崩れている」という考え方を持っていました。それでまあ、バランスを直そうと「いろいろ試してみた」んです。

(ここでもまあ)「奇跡」が起きることになります。ただし、高校で、回りの人は、私が中・長距離が苦手だということを知っているはずはありません。学校で10キロのマラソン大会みたいのがあって、
なんと、クラスで1位の成績をとったんです。(学年では15位くらいだったと思います。) 野球部・サッカー部、・・等、並み入る運動部員の猛者ども(笑)がいる中での成績ですから、凄いもんです。

まあ、私もナンチャッテ運動部(笑)には入ってはいましたが・・ナンチャッテというのは硬式とか軟式とかあるスポーツです。

さらに「続き」があります。まあ、いろいろとあって、大学生になって、家庭教師や塾のアルバイトをするわけですが、最初はなかなかうまくいきませんでした。「教えたのにできない」というのはザラでした。「なんでこんな簡単な問題ができないんだ!!」と怒り出す人は今でも結構いそうです。いわゆる「熱心な先生」の中にもこのタイプは多いんです。

(で、いろいろ試行錯誤したり、考え方を変えたりした結果)、教える生徒で、クラスで1番とか、学年で1番をとるようなことが続出するようになったんです。

(注意:1番を取るようになったのは、教えた生徒自身が考え方を変え実行した結果です。例えば、いくら優れた家庭教師でも、週にわずか数時間教えることだけで成績が上がるとしたら、それは逆に変です。週数時間の時間が、それ以外の時間にいい影響があるようにしなくてはなりません。

能力開発や訓練という視点も絶対に必要です。・・この部分を「学校側」が少しでも工夫できれば生徒の成績は底上げされるのになと思います。たとえば、よく副教材(参考書や問題集)の○ページから○ページまでを試験範囲にするといった学校がありますが、一つの教材を年間カリキュラムの中で、何回も繰り返しテスト範囲に指定する学校はほとんどありません。なぜか、先生方はどんどん新しいものを採用していきます。・・因みに、テストの点数に差がつくようにという(変な)目的も学校側にはあるということを言っておきます。


また、学習の場合、少々「長期的視点からの時間の短縮の工夫」も必要になります。普通はまあ、塾などではカリキュラムがあって宿題なんかを増やす方法をとっているわけです。私の場合は暇にならない程度に・・笑・・宿題を出すぐらいでした。)

私の考えですが、成績が伸び悩む人は「変に自分のもっている能力にたよる」人たちです。(←特に進学校に多いとのこと) 能力がある(とおもっている)ものだから、問題集をやってもそこそこできるんです。

A 記憶力がいいほうなので、メモ帳はもち歩かない(=ウサギ型)
B 記憶力が良いといっても人間忘れることもある、だからメモ帳を持ち歩こう(=カメ型)

自分の能力を(今いる位置から)大きくあげるには「カメ型」の思考が必要となります。

因みに、大昔(笑)私が調査して感じたことは、東大生の合格体験記のなかに、能力に頼っていない極めて地味な(?)人たちが結構いるということでした。東大より下のレベルでは、能力だけで合格してしまったような(=だから他の人には役に立たない)合格体験記が結構あったのですが、東大の場合は「同じ問題集を3回繰り返した」なんていう地味なのが多かったんです。


さて、勉強にしろ、運動にしろ「結果」を出しだすと、回りは「もともと能力がある生徒」という見方をします。

ドラゴン桜では、(弁護士の)桜木先生が生徒をひっぱっていくという設定のようですが、私は、すべて自分で決めていました。・・生徒に数多く教えはしましたが、実は、私自身は小学生の頃から、塾にいったことも、家庭教師に教えてもらったことも1度もなかったんです。

さて、ドラゴン桜では桜木(先生)にこんなセリフを言わせます。

「社会にはルールがある。そのルールは全て頭のいいやつが自分の都合のいいように作っている。逆に、都合の悪い事はわからないようにうまく隠している。ルールに従うやつでも賢いやつらはうまく利用するが、頭を使わない奴らは一生騙されて高い金払わされ続けている!

賢いやつは騙されず、得して勝つ!
バカは騙されて、損して負け続ける!
負けたくなかったら勉強しろ!

個性を生かして他人と違う人生送れるなんて間違いだ!社会はそういうシステムになっている。そういう世の中が気に入らないのならルールを作る側の人間になれ!

騙されず生きていきたいのなら、勉強しろ。
そして、東大へ行け!!


(管理人)ドラゴン桜みたいなものが人気になるとは、世の中もカナリ変化していると思えます。このようなものが受け入れられるようになったということは、逆に「東大に合格すること」が、お金持ちになるためのプラチナチケットとして、必ずしも通用しない時代になってきたということも意味しています。(固い言葉で言うと、学歴社会、終身雇用制度の崩壊が言われています。)

今は情報社会であり、参考書一つとってみても、ありとあらゆるものがそろっています。今は逆に「たくさんありすぎて、どれを選んだらいいか、どのように取り組めばいいのか、」というのが課題です。

今の社会は、「どうすれば東大に入れるか」というより、「どうやって自分の目標に集中しつけるか」というほうが難しいと思えます。

コツを押さえることで、高い目標を達成することは可能です。ですが、現代社会は「気晴らし」というか、「いろいろ目移りしたくなるもの」が多いのです。ドラゴン桜の中の生徒たちにとって、他の生徒が高校生活をエンジョイしているなかで、自分の意識を勉学に集中し続けることのほうが実は難しいというのが私の意見です。

周りが勉強に励んでいるなかで「自分も勉強に励むこと」は結果はどうあれ、難しくありません。周りがそうでないときに「意欲を維持し続けることのほうが難しい」のです。

今の世の中は、お金持ちになる方法も多様化しています。また、「お金持ちになる」という価値観より、(経済的に困らない程度のお金さえあれば、)むしろ「自分らしく生きたい」という価値観に移行しつつあると思えるのです。そしてこのことは、若者が、大人社会を実によく観察しているとも言えることです。


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  1. 2005/07/30(土) 19:14:34|
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お金持ちの視点

世の中には、「負けずぎらい」の人がいます。私もどちらかというと、そっちに近いと思います。スポーツをやる人は、この性格を持ち合わせている気がします。負けること=自分が惨めである、それが悔しい という気持ちがどこかにあるんです。つまり、それが嫌で頑張るわけです。
(もちろん、この性格がプラスに働く職業や分野も当然あります。)

負けず嫌いでなければ、割りと「人は人、自分は自分」という考え方を簡単にとれるようです。(私の兄弟が、そうでした。)

さて、負けず嫌いからくるのかもしれませんが、「お金持ちの視点」という話を書いてみます。

お金持ちになりたいと思うことや、お金持ちになったらやりたいことを想像することはあっても、「もし自分がお金持ちになったとき、いわゆる貧乏な人たちのことを、いったいどう思うのか?」というのは、あまり考えないことです。

まず、いえるのは、「基本的に、関心がなくなる」というのはいえるのではないかと思います。

貧乏な人が、お金持ちの人を「別の世界に生きている」というように、彼らも「貧乏人のことを別世界のこと」と考えているといえます。


ですから、あまりあり得ないのは「お金持ちのお節介」ということです。

たとえば、政治や経済に関心のない若者に対し、「関心を持たずにいて将来、経済的に負担増で苦労するのはあなた達なんだから、もっと関心をもちなさい。』とか『選挙には必ずいきなさい』とかは、恐らく絶対に言いません。(というか見たことがありません。)

もし言ったとしても若者のほうは、『余計なお世話なんだよ』というふうになることでしょう。実際、そのようなことを叫ぶ人(←お金持ちではない)の話を聞こうともしません。


この話は極端かな?とも思ったんですが、たとえば、選挙のとき投票に行く比率(=20代の投票率が一番低い)をみると、やはり極端ではないと思えるのです。仮に、ほとんどの人が、「投票という単純な意思表示」をするだけでも、世の中がとても早く変わると思うのです。

このような庶民や若者の行動の鈍さに対して、お金持ちの人たちは、動かないようで、動くときは実にはやく(表や裏で)動きます。自分達の利害に関係のある事柄については特にそうです。その結果、つまり、「庶民=なかなか動かない お金持ち=すぐ動く」ことで、彼らにとっては過ごしやすい世の中になっているといえます。

医療費アップとなって、TVで取り上げても「選挙結果は(今のところ)かわりません」。 投票率が低いからです。ところが、医療機関やそこで働いている医師などへの負担をいいだそうものなら、(国民全体から見ると、比率としてそれほど高くはないのですが)、すぐに大騒ぎになります。

そして、医療の質が落ちるだの、あるいは、医療機関の末端で働く人たちにとって大変な問題であるなんてことをいいだします。

ここで『おや?』って思ったかも(?)しれません。
庶民(=低所得層という意味)に関心がないはずの人たちが、珍しく声を上げているのです。

自分達に大きな影響のあるときだけは、「庶民の生活」なんてことをもっともらしくいいだすことはあるのです。(因みに、消費税アップなんていう話は、庶民が騒ぐほど、彼らは騒ぎません。消費税分は、節税と関係するので、やりかたによっては影響を小さくすることができるからです。)

さて、彼らの声の中によく出てくるものですが、それは「公平」と言う言葉です。その方法では公平ではない というわけです。たしかに、それだけ見れば、そうかもしれませんが、他方で制度的な不公平から自分達が大きな恩恵を得ていながら、今度は、公平を叫ぶというわけです。

中には、普段私達が「不公平」だと感じていない(?)こともあります。例えば、社長や役員の給料です、社長や役員の給料や退職金の額の妥当性はどうやって計られるんでしょう?


日本はまだマシともいえるでしょう。(今後は日本でも貧富の差が拡大していくことは予想されています。)

発展途上国では、やっとギリギリ生きていけるだけの低賃金で現地の人を雇っていながら、そのおかげで、会社が莫大な利益を上げることがあります。取締役は「経営のリスクを追っているのだから、これでも公平である」「彼らの生活だって以前よりも少しはましになったじゃないか」といいますが、本当にそうでしょうか?

歴史上、この構造に国レベルで気づいた例があります。いわゆる石油の話です。石油の価値に気づいた国たちが、先進国に対抗したのです。いわゆる妥当な条件でなければ「輸出しない」という言い分です。石油の場合は(?)先進国は、その必要性から相手の言い分を認めていくしかありませんでした。(で、その結果、アラブ諸国の人の中にも、大金持ちが生まれることになりました。)

続きです。

彼らはあるいは、「従業員に沢山の給料を払っていたら、他の会社との競争の中で生き残っていけない」というかもしれません。(そういいながら、自分の給料や、退職金は、たっぷりと支払う制度にしておきます。そして、会社の実態が酷い状況である場合でも、権利だなどどいって受け取ります。

会社の経営状態が悪い状況でも、制度だから受け取るよ って・・時給○○○円で雇われているアルバイトの言葉じゃないんです。そういえば、国をダメにしていながら、もらうものはもらうよ というのは今の日本の政治家や官僚ですが、まったく似ています。)

ただ、今は少しずつ、「これはおかしいんじゃないか?」という事柄がマスコミなどでとりあげられてきてはいます。

もし仮に、大部分の庶民が、そして大部分の若者が、いろいろなことに気付き、ごく単純なこと(=投票に行くとか)をしだしたら、まさしく、このことは「お金持ち」(=制度から恩恵を受ける側の人たち)にとって、とてつもない脅威となります。

こういう背景があって、かれらは、決して「寝た子を起こす」ようなことをしないのです。(そして、自分達が影響を受けるような動きを察知しただけで、表や裏で、庶民には考えられないほどの機敏さで行動するのです。)

ついでにいうと、上でのべたように「察知して素早く行動する」という資質が、お金持ちになる「心がまえの一つ」です。(現在のIT長者達もこの資質を持ち合わせているようにみえます。) ただ、「実現の手段」(=すなわち行動の内容)には注意してください。察知して素早く行動する人でも、違法性の高い行動を取る人がいるからです。何かのDVDをコピーして販売し、短期間に○億円の利益をあげて捕まるといったニュースを目にすることがありますが、一つの例ということができるでしょう。


さて、特殊な例かもしれませんが(?)、今日本は「銃社会」ではありません。
日本人の私から見て、「なんでアメリカは銃社会をやめないのか?」とおもうのですが、そうはならない構造は同じです。銃のない社会が実現すると「関連団体や、それによって利益を得ている人たちが困るからです。」そして、残念ながら、市民(=アメリカ人)は、「今だに眠っている」わけです。

(もちろん、アメリカは島国である日本と違って、密輸を防げないとか、今から全て回収するのは現実的でないとか、いろいろ理由をつけます。また、一般のアメリカ人自身が、銃がなければイザと言うとき安心できないといった考え方をもっています。ですが、一般市民や子供までが、自分を守るために「銃で相手を撃つ社会」が果たしてまともといえるでしょうか?しかし、こんな単純な話でさえ、なかなか実現されない現状を観察することができます。)




  1. 2005/07/28(木) 05:48:24|
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完全に見える「幻想」

今日は「愛」について述べてみます。といっても、「愛」と言う言葉から皆さんが「連想したもの」とは違うかもしれません。
恋人同士の、ロマンチックなものとか、家族同士の団欒や助け合いというのとは「イメージ」がちょっと違っています。

「地球上にある様々な問題の根本にある原因は・・愛の欠如ということですが、あなたがたにとって愛とはなんですか?」

「愛とは、さまざまに表現されるだけでなく、あなた方自身も愛そのものからできているという表現も間違いではありません。ここでは、見方ということでお話します。

自分の人生の中で、周りの状況がたとえどのように見えたとしても、あるいは、自分が何を見たとしても、自分自身と回りの世界がそれで完全なんだ、完璧なんだという見方をしてあげることです。

無条件に認めてあげることです。いいとか悪いとか判断しないことです。あなたが見るもの、全てについてです。例外はありません。 そして、これが愛です。」

「現実をすべて受け入れる ということですか?」

受け入れるというのとは、ちょっと違います。その言葉には、諦めるとか、何もできない、何もしないというニュアンスがあるからです。

現実がどのように否定的に見えようとも、まず、そのままで完璧な表現の一つの形だと認めるのです。なぜかというと、この視点をもとにしていくことが、もっとも変化が容易になるからです。

もちろん、あなた方、地球人にとっては挑戦かもしれません。たとえば、戦争や飢餓という現実を目の前にして、『これも完全性の一つの表現だ』と認めることは『何いってんだ』という気持ちにさせるかもしれません。しかし、このようなことでさえも完全だという見方をするための訓練とみることもできるのです。

これが完全性の表現なら、ほかにどんな完全性の表現が可能だろうか?と次の段階にすぐに進むことができます。

しかし、こう言われても納得できない人もいます。否定的なもの、すなわち壊れたものは、直さなくてはならないと考える人です。

しかし、壊れたもの、修理すべきものとして見るならば、さらに修理すべきものをみることになります。なぜならば「壊れている、あるいは否定的である、という視点を維持しているから」です。

あなた方は、よく悪と見えるものを非難したりしますが、非難することで良い方に変わることは、ほとんどないことはよく観察すればわかるはずです。非難には、感情的側面もありますが、「悪いもの、直すべきもの」という視点があるからです。しかし、「非難」でさえも「気づくこと」をもたらしてくれます。これが理解できれば、非難すること以外にいろいろ方法があることがわかるでしょう。

いずれにしても、宇宙は、あなた方の要請にしたがって状況をつくりだします。

それに対して、表面的には否定的に見えるけれど、それは、完璧である、完全性の一つの表現なんだという視点をもてば、実際の現実の中で、さらなる完全性をみることになります。

完全性という本質を別の言葉で表現することもできます。
『すべての出来事には、それが起こる完全な原因・理由がある』です。

不幸な出来事や否定的な状況が、運悪く降りかかってくるわけではないのです。」

「世の中に不完全なものはないということですか?たとえば、同情は必要ないと?」

不完全だという見方と、その結果として、不完全にみえる(完全な)幻想が存在するだけです。しかし、幻想ではあるのですが、それを経験している人にとっては、とてもリアルに感じられます。リアルであることが、あなた方の生まれてきた目的に役立ってくれるからです。あなたがたは、リアルに体験するために、ここにいるのです。

悲しみや苦痛のさなかにいる人には、苦しみや悲しみ、あるいは、何かに対する怒り、あるいは、無力感や絶望などが存在します。状況が変化するには、まず そういったエネルギーを開放して上げる必要があるのです。

楽しい気分のとき、充実感を感じているとき、心が平和なとき、人はいろいろなアイデアや解決策を生み出します。エネルギーが自由だからです。エネルギーが自由になると、それまでとは別の状況、すなわち、より完全にみえる別の幻想に変わっていきます。

同情するというのは、エネルギーを縛ることになります。相手を、かわいそうな存在、弱い存在と見ているからです。理解してほしいのは、そういった環境をあなたがたは皆承知して生まれてきているということです。中には、一つの人生で沢山の挑戦をするためハンディを抱えてくる人もいます。

だからといって、援助や手助けが不要であるということではありません。上手い表現があるといいのですが、たとえば、あなたは、植木に水をあげるときに、『木がかわいそうだから水をあげるわけではありませんよね。木が立派に育つことを楽しみに水をあげるはずです。あるいは、木から安らぎや癒しを得るからかもしれません。』 

同時に、私たちは『相手に与えないということは自分に与えないことである』ことも理解しています。ですから、相手を強い存在、自分達と対等の存在とみてあげることは、相手に対して大きな贈り物になります。対等だとみてあげるということは、たとえば、自立の手助けをするということです。そのための知識や技術を提供してあげるのもいいでしょう。」


「不完全な見方をしている人にしてあげることがありますか?」

「完全であるという見方、すなわち愛が基本になります。このような考え方を言葉にして話してあげることもできますが、相手の観念は拒絶するかもしれません。

一般的には、その人の基本的な欲求を、まず満たしてあげることが必要です。相手が心地よくなったときに、否定的な状況は自分の考え方や選択がもたらしている、あるいは、何かを学ぶために状況を作り出すんだという話をすることができます。


そして、この話は、あなたが自分自身に対するときも同じです。まず、あなた自身をちょっとだけ、心地よくさせてあげることも、まずは大切なことです。まわりの人に対しても、何でもやってあげるのではなく、ちょっとだけ心地よくなるようなことをしてあげてください。」

「周りの状況や他人、あるいは、自分自身を、いまのままで完全なんだという見方をしているかどうかは、わかるんでしょうか?」

「もちろん、わかります。あなた自身の感情を気をつけてみていてください。表面的に『完全なんだ』といいながら、実はそう思っていないことがあります。本当は腹がたっているのに、完全なんだと言い聞かせて、それを我慢する というのとは全く違います。」

「腹がたったら どうしたらいいんでしょう?」

「全ての人が、無条件の愛をもっているならば、そのようなことは起こりません。ですが、今のあなた方にとっては、現実的ではないのかもしれません。なぜなら、あなた方は、両極性の世界に生きているからです。

両極性の世界とは、両極があって成り立つ世界です。ですから、あなた方の言葉でいうと『問題が起こる世界』です。というのは、あなた方の大部分は、両極性(とくに問題)を解決する過程の中で成長しようと決めているからです。つまり、あなたがたにとっては、仮に問題がなくなったとしたら、やることがなくなってしまいます。

もし、たとえば、病気というものがなくなったら医者は仕事をなくしてしまうということです。

あなたがたが聖人と呼んでいる人たちは、『悲しいとき、悲しむことは当たり前である』といいました。同時に彼らは、『悲しむのは自然な感情であるが、悲しみに溺れてしまったとしたら、それは本当の自分ではない』と知っていたのです。

腹を立てたとしても、それは一瞬のエネルギーとして扱うことができます。つまり、訓練しだいですが、すぐに切り替えができるようにできれば大丈夫なのです。ですから、固く考えないで、時には腹を立ててみることも、エネルギーを自由にする一つの方法になります。

このように考えられれば、感情を(たとえば怒りでさえ)楽しむことができます。これが、エネルギーが自由な状態です。自由とは、軽いということです。」




  1. 2005/07/25(月) 00:43:24|
  2. 完全にみえる幻想|
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良くないことが起こったとき、起こりそうなとき

ニュースなどで今日の話をもし「実際にやったら」多分、放送局に抗議殺到だろうな・・と言う話です。

世の中に起きることに「正しいとか間違っているはない」というのがあります。

「勝手に判断しているのは人間のほうではないのか?」ということです。(実際は、エネルギーが個人の観念や選択、集合組織の観念や選択から『いい事や、悪いこととして』起こります。)

悪いことが起こりそうなとき、起こったとき、世間の反応はほとんどワンパターンです。この中には、学者や占い師なんていうのも入ります。

占い師なら、「私の予言していたとうりになった」 なんていうかもしれません。

でも、原則から考えると「このようなすべての反応はとてももったいない」と思えるのです。

何かが自分に起こるとは、ただ単に大きなエネルギーの波が来ているということを示しているだけです。じゃあそれを「ラッキーに変えてしまえば」ということなんです。

その方法はとても簡単なんです。良くないことが起こったとき、起こりそうなとき、『いいことがあったよ。いいことが起こりそうだよ。』と言ってみるということです。

昔から出かけるとき靴の紐が切れるのは縁起が悪いといわれています。

ある朝、出がけにゲタの鼻緒がプツンと切れてしまったとします。
(そういえば最近ではゲタを履く人は滅多に見ませんね。)

ついてない人はこんな反応をします。
「あっ、出がけに鼻緒が切れるなんて縁起が悪い。何か良くないことがおこる前兆なんだろうか。」

普通の人は
「鼻緒が切れたか。寿命だったんだな。今度お店に行って新しいゲタでも見てこようかな。」

そして「ついている人」です。
「出がけに鼻緒が切れてほんと良かったよ。これが出先だったらひどい目にあってたよ。なんか今日はいいことがありそうだ。」

( 以上は一人さんの話ですが、このあと解説があります。)

一人さんいわく、

これを読んで「何でも肯定的にとればいいんだ。」と考えるかもしれません。でも、私の考えはちょっと違います。
「ツイテル」というと(そのあと)実際についていることが起きてしまうんです。

(管理人)このようなことを無意識でも実行して「ラッキー☆」を獲得した例を聞いたことがあります。外国の話ですが、確か、交通事故にあってしまって通院をするはめになってしまった人がいたんだけど、すごい前向きな人だったんです。「こっちの不注意でもないのに、交通事故にあうっていうのは、もしかして今のオレって凄いツイてるってこと?」

こう考えた彼は、「じゃあ宝くじ(日本でいうロト6みたいなもの)でも買えばあたったりしないかな?」と考えました。でも、数字をどう決めればいいかわかりませんでした。で、彼がそのとき持っていたのが通院することでもなければ持ち歩くことなどなかった健康保険証でした。で、その保険証の数字をそのまま使ってみたんです。そしたらナント!高額賞金にマジに当選してしまったんです。

...(学べることは、彼は事故にあった自分を不運とか、不幸とかこれっぽっちも考えていなかったことです。)

(さて、一人さんの お弟子さんのひとり、女社長の柴村恵美子さんの本に面白いくだりがあります。)

今年の正月明け、ひとりさんが私にこういいました。
「今年は何か、いいことが起きそうな気がする。ウチの商品がヒットするのか、何がいいことなのかはわからない。だけど、何か来そうな予感がするんだ。」

一人さんがそういうので、私(=柴村恵美子さん)までワクワクしてしまいました。何でかって、一人さんがそう言うときには、たいてい「いいこと」が起きるからです。

で、そのあたりの話を聞いたら、一人さんが次のような話をしてくれました。

「わかると思うけど、人の心ってコロコロ変わるものなの。
でね、俺は時々『しあわせだな。何かいいことがありそうな気がする』っていうんだ。

そうすると、こんなことを言う人がいるんだ。
『いいことがあるって、どんな予感がするんですか?』って。

それは、いやーなことが起きそうな感じがするんだよ。(笑)
でも、そんな時、みんなは『悪い予感がする。』とか『嫌なことがおきそうだよ。』って言うんだよ。

でも、人の心って嫌なことを考えたり、楽しいことを考えたりコロコロ変わるよね。だから、心に従っていちゃいけないの。

夜になって暗くなったら、家の電気をつけるよね。
『いいことが起こりそうだ』と言うのは電気をつけることなんだよ。
そう言うと、心がポッと変わるんだ。

嫌なことが起こりそうなときや起きたときに
『何か悪いことが起こりそうだ』とか『やっぱり嫌なことが起きた』って言うのは、電気をつけないで暗いままでいるということなの。


ほんとは、明るいときには電気をつけなくてもいいんだ。そんなときは黙っていたっていい。だって明るいんだからさ。で、暗いときに電気をつければ結局いつも明るくなるってことじゃない。

で、明るくすれば「いいこと」が起きるようになってるの。

だから、
嫌なことがあったときは『いいことがありそうだな』なの。
気分が悪いときには、『なんか気分がいいな』って言うの。

はじめに言葉ありき、なんだよ。


世間では『言葉より、心が先だ』って人もいる。
だけど、心が先で、心に従っていたら、人はお天気屋になっちゃうよ。

(管理人)
占いでも心を明るくすることの重要性を知っている人もいれば、悪気はなくても「不幸な占い」をする人もいます。
人(=占い師)に明るくしてもらうのもいいけど、自分で明るくすればいいだけの話です。今日からは??占いはいりませんね。笑 

まあ、話を聞いてもらうだけですっきりする人もいますから占いをしてもらうのも悪くはないですけどね。


⇒柴村恵美子さんの『一人さん本』
・・一人さん本人の本より面白い(笑)オススメ本が彼女の本です。
文体が20歳代の女性みたいな感じで、素直な疑問を一人さんにぶつけて困らせたりしていて、しぶしぶ答えてもらっているという場面もあります。この本読んだときは、私も思わず笑いころげてしまいました。


「いいこと」と「わるいこと」「勤勉と怠慢」

このように、反対の意味を持つ概念があります。たとえば、「勤勉と怠慢」の場合なら、 勤勉であることを「いいこと」とし、「怠慢」であることを「悪いこと」と普通は判断して(さらに批判までもして)しまいますが、これらは「違うようにみえながら元は同じエネルギーなのではないか」という考え方があります。

同じエネルギーならば、「怠慢であることを非難したり、取り除こうとするのはとんでもないことをしている」かもしれないのです。たとえていうと映画で言うと「ゾンビ」みたいなものです。

もともとは仲間なのに、相手の術にはまって敵になってしまって自分達を襲ってくるという設定の話があります。こっちとしては、「仲間」であることを知っているので、容赦なく、その相手を叩きのめすことができないというもどかしさがあります。かといって、そのままでいればやられてしまうので抵抗することになります。 

この時、できることといえば、術を解こうとすることとか、あるいは親玉をやっつけることです。親玉をやっつけると「敵だった仲間が自然に元に戻ります」
親玉に当たるのが「物の見方・考え方」にあたると考えられるんです。
ただし、親玉をやっつけるんじゃなくて(笑)「違う見方をしてあげる」ということです。



  1. 2005/07/14(木) 12:59:31|
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自分の人生に興味を持つこと

前回の「抵抗を明け渡す」の話では「求めるから得られない」という原則をはなしました。

単純な理屈では、「お金を(マトモな方法で)儲けたいなら、お金儲けのことを考えるな」となりますが、「お金儲けしたいのに、その方法がお金儲けを考えるな・・ってどないなっとんや」(笑)てな感じでしょう。..でも、この禅問答みたいな受け答えは、お釈迦様やイエスキリストなんかもよくしているんです。


さて、もうちょっとわかりやすい解決策の一つが今日の日記です。
「執着していいことが唯一あるとすれば、それは自分の人生について である。」です。これでも抽象的過ぎるので、一人さんの話を一部改定して紹介します。

「おおよそね、お金に興味のある人でお金持ちの人って少ないんだ。
お金持ちになった人って、仕事が好きな人なんだよ。

さらにいうと、世間で出世した人で、他人の人生に興味を持ってたひともいない。

最近、オレも世間様からお金持ちとか成功者と呼ばれるようになったけど、もともと、オレはお金にあまり興味がなかったし、他人の人生にも興味がなかったんだ。

もちろん、歴史小説なんかを読んで、昔の人の生き方に興味はもつよ。でも、それは、本を読んでいる間だけなの。だって、時代も違えば環境も違うよね。それに、オレは、本に出てくる人物じゃないから、真似しようと思っても無理なの。

世間でも、他人の人生をあーだこーだ取り上げているけど、他人の人生ばかり興味をもって追っかけても、自分のためにはならないよ。

それより、今、自分ができることに興味を持って、それを実行したほうがいい結果がでるんだけどなと思うよ。」

(管理人 他人の人生に興味を持つということを取り上げてみます。
他人の人生に興味をもつとは、他人の人生を考えることに時間を使って自分の人生を考えること(←悩むことではない)に時間を使わないということです。

さらにいうと、他人の人生を考えてるって一体何を考えているんでしょう?・・・もう判ったと思いますが(?)
他人の人生について考えるとき、そこから「学んでいる」なら自分の人生に応用できるので少しは役立ちますが、ほとんどが「他人の人生を、いいとか悪いとか、この事件では誰に責任があるかとか判断することに時間を使っているといえます。」

「あなたは、裁判官かなんかになるのが夢で、そのための訓練をやっているんですか?」(笑)ということです。


次です。
自分の人生を考えているはずなんだけど、・・なんか上手くいかないんだよね・・という場合、私と同じような(?)次に述べる観念をさらにもっていることがあります。

それは、「ステップ」と言う考え方です。
たとえば、

「好きなことをやりたいけど、生活があるから・・」
「まず、生活の心配がないようにしてから(=ステップ)、好きなことをやろう。」
です。(この考え方の大本のエネルギーは、ほとんどが不安や怖れです。)

この考え方は結構、根強く根を張っていることがあります。
お金以外でも・・

「一人前になったら、彼女に結婚の申し込みをしよう。」とか
「10キロ ダイエットしたら海に泳ぎに行こうかな」(笑)
なんていうのもあります。

こんなのも「同じ観念」です。この観念が問題なのは、「○○したら、○○になったら」の部分のステップが達成できないと「先に進めなくなる」ことです。

「一人前になったら」・・とか言っていて「一人前になれなかったら」どうするんでしょう? サラリーマンなら会社がなくなることだってあるかもしれません。それはつまり、彼女との結婚をずっと先延ばしにするか、自分に妥協するということになります。

ステップを自分に合う程度に小さいものにしておくなら、当然役には立ちますが、たいていは、夏休みの計画を立てる時、こなせないほどの計画を詰め込んでしまうように(笑)、「ちょっと無理めなステップを、あるいは、やらなければならない沢山のステップを作り出し、結局、それを言い訳にする」というのがよくあるパターンだからです。

ステップは、知的に物事を運ぼうとする人が陥りやすい観念です。
ステップは、努力とか、頑張るとかいうことに価値を置いている人が陥りやすい観念です。



・・さて、社会全体としてどうなのかというと、これは、権力者や政権が人々の反乱や謀反を抑制することに使ってきました。
特に、江戸時代には、時の権力者達は「その辺のことを良く知っていた」ようです。

「恥をかいちゃいけない」という「恥の文化=つまり心理的にリスクを冒させないようにする文化」がつくられていったのもこの時代です。

現代日本では、高コスト社会をつくりあげてしまったのも、ある意味「リスクを犯させない仕組み」といえます。例えば、家を買う場合でも、35年ローンなんていうのがあたり前です。まさしく「生活のためにリスクを冒させない構造」といえます。

このような観念をとっておくか、変えるかです。





  1. 2005/07/13(水) 13:05:55|
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抵抗の明け渡し

「抵抗の明け渡し」とは西欧人の学者が使った言葉ですが、これは東洋人の私たちにとっては「ゆだねること」「執着を断つこと」を意味します。

とはいっても、東洋人も現代は、生活だけではなく、意識的にも、かなり「西洋化」されてきたのは事実ですので、この「抵抗の明け渡し」という考え方をとりあげてみたいとおもいます。

心の世界を話すとき、でてくる言葉に「自我」というのがあります。
某学者によると、

『自我とは自分の「代用品」と同一化した偽りの自己である。』です。

具体的には、自己を「自分の代用品に投影する」ということです。
(この部分の考え方が東洋的には執着という考え方になります。)

たとえば、ステイタス・シンボルとして高級車に乗っている人がいるとします。彼は高級車に乗ることで自分を偉いと思い、また人にも思わせようとするかもしれません。この状態が「自我が代用品と同一化している状態」の一つの例です。高級車に乗ることと、その人の価値とは無関係なはずなんですが、そのように錯覚するという心理構造です。

ここで「なじみの(?)疑問がでてきます。」
「高級車を乗り回すのが悪いことなのか?」です。(あるいは、高級車を乗り回して何が悪いんや」という開き直りです。)

悪いことは全然ありません。高級車だってデザインを考える人がいて、また多くの従業員の手をへて、いろいろな人たちの思いがあって販売されています。ただ、背後にある考え方(とそれにまつわる感情)のことを話していきたいわけです。

もし単にそうするのが楽しいから贅沢な車を運転したいのなら、それはそれで悪くも何でもありません。ですが、もしこういう車を運転することが自分をより重要な人間にすると感じたり、運転しているところを見られたかったり、“私のもの”であることを誇示したいのだとすると、問題があります。 

私も1ヶ月間ぐらいは(笑)こういうことをして人をビックリさせてみたいですが(←ガキそのもの)、多分すぐに飽きるでしょう(笑)。問題があるのは、し続けようとする心理です。し続けるとした場合「空虚感とか、何かに対する怖れ」みたいなものが脅迫観念みたいな形であるからです。

さて、人が「代用品」に依存しているかどうかは、すぐに(?)分かります。代用品が破壊されたとき、(それを失くしたと想像しただけでも)自分を失うように感じるからです。

依存してない人もいます。たとえば、芸術的価値も高く、高価な壺を、なんらかの不注意(つまりワザとではなく)割られてしまったとしましょう。その壺を持ち主は大変大切にしていました。

(普通の感覚では)「大変なことをした。怒られるだろうな・・。賠償金、どのぐらい請求されるんだろう。・・」と考えると思います。

ところが、壺の持ち主は「お怪我はありませんでしたか?この壺は、確かに高価なものです。しかし、形あるものはいつか壊れるものです。ここに置いていたのは、来てくれた人に美しい壺を見てもらうためなんです。だから、何かの拍子で壊れることだってあるんですよ。壺が壊れたのは壺の寿命なんでしょう。ハハハ・・」

..さすがに、真のお金持ちは違うなあ(笑)・・と感じたかもしれませんが、この壺の持ち主は「壺を自己の代用品としてみてない」といえます。

次です。
某学者は、(精神的な意味あいでも)自己と同一視した代用品を破壊することで自分を取り戻す試みは失敗に終わると述べています。

代用品といっても、物だけでなく、名声や肩書き、高尚なところでは「自己発見」とか「悟り」のようなものも含まれるといいます。

「自分の行動がすべて抵抗であることに気づかないと、たとえば、悟りを得るための何らかの方法、行動があると信じてしまう。・・・自分には選択、代替案があり、逃げ道があると考えるのだ。・・・個人が統一意識(=悟り)を“手にする”ことができない理由は、本人がそれを求めているからである」

悟りのような高尚な(?)ものを求めていながら、求めるから得られないとはなんというパラドックスなんでしょうか?

(管理人 お金については、この考え方をこの日記で話したことがあります。金持ちになろうとするとき、金持ちでない自分への否定があり、抵抗がある。「金持ちでない自分からの逃避」があるわけわけです。今の自分からの逃避、否定が強いとき、宇宙は「自分は今お金持ちではない」という思いが強いのを・・願いと勘違いして(?笑)・・現実化してしまうということです。)

某学者の説明によると「人生の何らかの側面を嫌っているとすれば、統一意識の何らかの側面に抵抗していることになる。なぜなら宇宙意識とは、すべてが統合された分裂なき状態だからである。こうしてわれわれはひそかではあっても、進んで統一意識に抵抗し、それを否定するのである」

次に「抵抗の明け渡し」がでてきます。
 「自分の動きがすべて、今の自分から立ち去ろうとする一つの抵抗であることを本当に理解すると、抵抗の陰謀全体がゆるんでくる。自分のあらゆる動きのなかに、この抵抗を見るようになると、自然に抵抗をすべて明け渡すようになる。この抵抗の明け渡しこそ、統一意識の開示であり、無境界の自覚の実現である」

では、この考え方を「どのように応用できるでしょうか?」


↑で抵抗の明け渡しと言っていますが、「抵抗を明け渡そうとする」のも一種の抵抗といえます。水泳選手は速く泳ぐために水の抵抗を少なくしようとしますが、仮に抵抗がなくなれば前に進むこと自体できなくなります。ですので、抵抗そのものは、あるのが当たり前であり、あってよいのです。感覚的には「意識的に選択すること」の一方で、「その結果はある程度は成り行きに任せる」という能力が必要だと(個人的には)理解しています。

(もう少し見ていきます。)

この原則を理解している(かのように)行動し、素晴らしい結果を残していたという調査もあります。まあ、アメリカの場合、このようなことを調査していたりするわけです。

..癌などの難病で助からないと思われていた患者が、後に奇跡的な自然回復をしたケースを収集・調査した。すると、そうした患者は心理的に常人とは違う境地にあったことが判明したという。

 すなわち、彼らはなにがなんでも絶対に病気を治すと息まいていなかったというのだ。病気が奇跡的に治るようにと必死の願かけもしていないし、宇宙から癒しの力を引き出そうとしゃにむになってもいなかった。ただ病気の存在を含め、すべてがあるべくしてあるという、受容と感謝の心をもっていただけだという。

(管理人..医者+世間一般の思い込みに、「○○で病気が治るんなら、世の中、医者なんていらないよ」というのがあります。しかし、最近では、「白い巨塔」の財前吾郎も(笑)驚くような統計が発表されています。上でいった、受容と感謝もあるけど、もっと取り組みやすいものがあります。それは、なにかというと...........笑いです。

病気の人たちに「お笑い」を見せたり、実際に芸人にきてもらったりする治療です。(病人の人たちは「治療」だとはおもっていないでしょう。)生存率や回復率に目覚しい違いがでてました。・・もちろん医学的には、笑うことで自律神経がどうだとか、キラー細胞がどうだとか、結果、免疫力がアップしたからだという説明がなされます。


因みに、斉藤一人さんは「病人らしくないことを考えること」を話しています。上の例では、病人が「お笑い」をみてゲラゲラ笑うというのは、まさしくラシクナイといえます。(病気の波動を笑いの明るい波動で中和する、打ち消すというわけです。心が暗いとき、知らないうちに笑いを忘れていることはよくあるものです。)


この考えを分析するとき、「指示的・非指示的」という観点を学ぶことができます。

指示的な願いのなかには、何があるのかというと「自我」があると考えられるのです。自我とは境界であり、それがゆえに抵抗です。
相手のためを思っているようでも、指示的な願いという形で「自分の要求や期待が含まれる」ことはよくあることです。..ストーカーなんかでも、情熱的な人だと受けとられないのは、「自分の要求や期待」が突出し怖さを与えているからといえます。

祈りの場合についても、

結果がどうであれ、ただ相手が幸せに、よくなるようにと祈ること、あるいはただ愛の念を送るだけの場合には、自我の介入はかなり少ないように思われます。

それはまったくの「受容」的な態度であり、「世界の英知にすべてをゆだねる」気持ちであって、自我の欲求を押し付けようとする作用がありません。 それは無条件であり、取引の要素がありません。そのため、自我という境界がなく、祈りのエネルギーがより一層、相手に伝わるのだと考えられます。そこには相手との一体感があるからです。

(東洋では無我の境地などという言葉があります。無ということばがとてもわかりにくいというか、つかみにくいんですが、以上のことから、一体感ともいえると思われます。そして、一体感の考え方から生まれてくるものがあります。それは、どういうときに一体感を感じるかを想像してみれば、いろいろとあることに気づくでしょう。たとえば、「協力」とか「信頼」です。)


さて、(話は飛びますが)新しい家を建てるとき「足場」つくる必要があります。足場は「あたらしい家を作る」のに絶対に必要であり役に立つものです。しかし、新しい建物ができたなら、足場は不要になり解体される運命にあります。


この足場に当たるものが「自分=すなわち自我」なのではないかとおもいます。そして、人は「次々と新しい家を建てるのではないか?」ということです。 そのなかの「足場を解体する」作業が(小さいものであっても、たとえば、大切なものを亡くすとか)自我の喪失を引き起こす出来事ではないかと思います。

別の言いかたでいうなら、たとえば、魂(=大きな自己)が、謙虚さを学ぶという人生の目的達成を考えたとしたら、プロセスとして、まず、傲慢さを経験し、そこから学ぶことで謙虚さを知るというシナリオを書くといえます。

傲慢であることも、プロセスとしては役に立っているといえます。こう考えると、この世には、実質的に「失敗」などは存在せず、むしろ失敗は、超意識=魂の人生計画が「成功」したことの証でさえあるかもしれません。人の傲慢さも、長い目で見るならば、それは学びのプロセスにすぎないことがわかります。学んでいくことは何であれ、美しいことです。

(注 体験したいなら別ですが、傲慢さがもたらすものをわざわざ実体験として経験する必要はありません。その体験を通して「感じること」「わかること」にただ気づいて考え方を変えればいいだけだからです。これは、個人の意識で決められるともいえます。でも体験してみたいというのも人間です。超お金持ちが貧乏生活を体験したい・・笑・・みたいな・・笑..ものかもしれません。)

斉藤一人さんをよく取り上げていますが、彼は毎年納税額TOP10にはいるようなお金持ちでもあります。彼が、どうやって相手をやっつけるかというアイデアを話しているのを弟子の社長さんが聞いたことがあるといいます。ところが、それを実行に移そうとするのを見たことがないといいます。それについて聞いたところ、

「別に、実際に実行する必要なんてないんだ。頭のなかだけでいろいろアイデアをだしてやっつける方法を考えるのも、楽しいことなの。実際やろうとすれば、多分できるだろうけど、向こうも抵抗してくるだろうし、やっつけたとしてもいい気持ちはしないんだよ。それより、相手と友達になったり、仲間になったりしたほうが楽しいよ。秀吉が天下を取ったのだって、彼が相手をやっつけようとしていたからじゃないんだ。争いの時代にあって、相手も仲間にしようとしたからこそ多くの人が彼についていったんだ。」

というようなことを(確か)いっていたように思います。

非指示的な観点からくる「テクニック的な方法」を話したことがあります。「疑問文として問いかける方法」です。その話は、興味のある方は「原因と結果の法則」の講を
御覧ください。













  1. 2005/07/11(月) 13:00:51|
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トリビアの泉で調べて欲しいこと おやじ おふくろ

自分の親のことを「何と呼んでいますか?」

というのも、昔から思っていたんですが、ドラマとかで、子供が「オヤジ」とか「オフクロ」とか呼ぶシーンがあるんだけど、どうも違和感があるんです。(ない人もいるでしょう。)

つまり、私は「オヤジ」「オフクロ」という言葉を使わないからです。じゃあ何をつかっているか?

「父さん、母さん」です。(関係ないですけど、巨人の星の星雄馬は、「とうちゃん・かあちゃん」でした。

さて、ここで分析がはいるんですが、「オヤジ・オフクロ」を使う人は、子供の頃「パパ・ママ」を使っていたのではないかということなんです。それをトリビアで調べてほしい(笑)。
(もちろん、小さな子供の頃からオヤジ・オフクロという呼び方を使っていた人もいると思います。)

 私の場合は、小さい頃から「父さん母さん」で、パパママを使った記憶はありません。また、そんな雰囲気の家でもなかったです。今は、廃れた(?)「長屋」というものに住んでました。(長屋とは、平屋で細長い構造の家に複数の家族が生活するというものです。もちろん玄関は別です。当然?お風呂はついていません。)

話を戻します。

日本語の語感として「パパ・ママ」は幼児語だといえます。特に、男が30代、40代になって「パパ」とか「ママ」とか言っていると、確実に気持ち悪いとおもわれます。

だから、普通の流れなら、成長の過程で「パパ・ママ」から大人も使える代わりとなる言葉を見つけようとします。そこで、ドラマなどでも良く耳にする「オヤジ・オフクロ」です。

いっぽう「とうさん、かあさん」(とうちゃん・かあちゃん、おとう・おかあ など地域によりバリエーションはある)は幼い子供が使うと「かわいいい言葉」ではありませんが、成長してからも(使っても変ではないので)使えます。

近頃は、やはり、「パパでちゅよ~」(笑)「ママでちゅよー」・・こんな感じの親が増えてきているんやろか?。



  1. 2005/07/07(木) 12:10:21|
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「正しい」見方に振り回されない

前回は経済的な話で「事実を知っておこう」「覚悟はしておこう」ということでしたが、そういったことに対し負担にならない程度の「準備をしておくこと」は必要ですが「心配や不安の気持ちを持つとしたらかえってマイナス」となります。


今日はそういう話です。
(引用 一部改変)クリエイティングマネー  サネヤロウマン

・・・一般大衆(集団意識)は個人の考えに影響する可能性のある強力な思考形態を生み出します。

たとえば、人々の中には経済について怖れているひとがいます。彼らは不景気や景気後退がやってくることを考えます。

もしあなたがニュースなどを聞いて将来の経済について心配しているとすれば、無意識に彼らの考えや怖れに同調し、それを自分のものであるかのように反応します。 

どんな時代であっても、大変な経済の時代に住んでいると感じる人もいれば、社会の経済状況とは関係なく今までで最高の時だとかんじる人もいるのです。

あなたの課題は経済についての自分の考えを肯定的に保ち、大勢の人々が考えたり言ったりすることに影響されないことです。

あなたには経済的不況の時にも豊かに暮らすのに必要な導きがたえず送られてきています。もし、人々が仕事や多くのお金を失うことがあるとすれば、それらはただ彼らの高い幸福のためにならないからです。そういう出来事によって、彼らの人生が何らかの形でよりよく変わる手助けをします。

たとえば、仕事をなくしたことを「失敗」ととらえるのではなく、「自分がやりたいことをするチャンス」ととらえたことで、以前の職の何倍もの報酬を手にすることになった人もいるのです。


(管理人)
正しいからといって「その物事や見方」を受け入れる必要がありません。(受け入れたいもの、賛成できるものは受け入れてください。)

正しさとは前提や条件、考え方、場合によっては「場所」によっていくらでも変わるものだからです。

たとえば、 消費税があがる⇒生活が苦しくなる という見方があります。あなたが、この見方を受け入れたいならそうしてもいいですが、受け入れたくないなら受け入れないほうがいいということなんです。つまり、普通は「吟味もなく」受け入れてしまいます。

経済の専門家がいうなら「正しい」ことなんでしょうが、「あなたにとっては必ずしも正しいことではない」といえます。

収入が増えたら影響は少ないかもしれません。家賃が何割も安い物件を見つけて引っ越すことがあるかもしれません。日本国内でも生活費が驚くほどかからない場所もあります。

教育費だって家族で話し合って減らせるかもしれません。調べてみれば「安く質の高い塾」だってあるだろうし、今は情報社会です。しっかり自覚さえあれば、そういったものに頼らずに実力をつけることだってできます。必要なのは子供自身の自覚です。(家の経済状況が問題なら、そのことを話すことで、かえって自覚が生まれます。)

(これを読んで、「だけど・・現実は、・・」と否定したい気持ちになるとしたら、それは、一般大衆の考え方を受け入れているといえます。)

最近、テレビで、いわゆる「お金持ち」(セレブとか)の番組をみかけます。うらやましいと思いながら見ている人も多いでしょうが、受け答えなどから「どんな考え方をもっているか」を垣間見ることができます。

簡単に言うと、少なくとも「一般大衆の考え方」ではありません。一般大衆なら「消費税があがるから節約しよう」ということでしょうが、彼女達は「自分の価値観にあわないものは節約しよう」です。

それ以上にいつも感じるのは「圧倒的に天真爛漫(=心配とか不安が少ない心の状態)」であることです。

(普通は、お金持ちになったから天真爛漫になれるのだろう・・と考えますが、天真爛漫だからこそ お金持ちの状態になったといえるのです。特に、日本人は、努力してお金持ちになったというパターンが好きなので、番組もそのように作られ、視聴者もそのように見てしまいますが、よくよくみると、自分の好きなことをただやってきただけという人も多く見られます。)

「私も天真爛漫よ。」(笑)という人もいるとおもいますが、そうだとすれば、とても素晴らしいことです。ただ、普通の人は(私も含めて)圧倒的に「行動力が不足」しているといえます。

失敗を怖れるから・・
変化を怖れるから・・
どうすればいちばんいいかを推し量って考えようとするから・・

です。

どうすればいちばんいいだろうかを考えること自体は悪いことではありません。ただ、ここでとりあげたのは、時間がかかる、また行動力の不足につながりやすい思考パターンだからです。

会社ならば「行動力があり決断ができる人」が上に立ち、「じっくり考えていろいろプランを出せる人」や「実務に強い人」が下につけば、役割分担ができていてバランスが取れるといえます。

  1. 2005/07/02(土) 12:27:35|
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